一口メモ
2006-07年度 会長 大愛恒雄
CLPの新しい発想
2007/6/25
CLP (Club Leadership Plan) を採用する場合、どうしも避けて通ることのできないステップに委員会構成の合理化があげられます。どのような委員会構成を採用すれば、効率のよいクラブ運営ができるのでしょうか。以前の推奨ロータリークラブ細則は大規模クラブを対象にして作られたものだったので、中小規模のクラブがそのまま採用すれば、一人の会員が幾つもの委員会を兼任せざるを得なくなり、結果として満足な委員会活動ができないという問題が起こっていました。細則に記載されている委員会をすべて設置して、一名の委員長と二名の委員を置いて、さらに定款で定められている役員を加えれば、70名規模のクラブでなければ、この委員会構成を採択できない計算になります。もっとも、クラブ細則はクラブが独自に決めることが可能なので、自らのクラブの規模にふさわしいように委員会を統廃合して、クラブの運営を合理化すれば良いのですが、日本のほとんどのクラブはこの作業をせず、推奨クラブ細則をそのまま採用して、無駄な委員会に数少ない会員を張り付かせているケースが大部分でした。
近年、CLPに基づいた新しい推奨クラブ細則が発表されましたが、その冒頭に「本細則は単に推奨されるにすぎない。従って、ロータリークラブは、標準ロータリークラブ定款、RI 定款、RI 細則、およびロータリー章典と矛盾しない限り、クラブ自身の事情に応じて変更することができる。」と書かれているにもかかわらず、それをそのまま採用することを前提にして、賛成、反対の議論に花が咲いているようです。どうも、日本人の、お上から与えられたものをそのまま受け容れるという悪い習慣は、なかなか治らないようです。要は、小規模のクラブでも効率的に運営できるような委員会構成を考えることです。
1927年に開催されたオステンド大会で、ロータリーに四大奉仕の考え方が導入されましたが、それ以前は、ロータリーの諸活動をクラブ内諸活動とクラブ外諸活動に二分して考えていました。この考え方を採用すると、中小規模のクラブに適した、きわめて合理的な委員会構成ができます。
まず、ロータリー活動をクラブ内諸活動Club internal activitiesとクラブ外諸活動Club external activitiesに二分します。クラブ内活動は会員自身に関わる会員委員会と、クラブ管理に関わるクラブ管理委員会によって構成されるクラブ奉仕委員会が担当し、クラブ外活動は例会外で行う奉仕活動全般、すなわち職業奉仕委員会、社会奉仕委員会、国際奉仕委員会、財団委員会によって構成される奉仕活動委員会が担当します。
会員委員会は、従来の会員増強・会員選考・職業分・ロータリー情報各委員会の職務を行い、クラブ管理委員会は、プログラム・出席・広報・雑誌・会報・インターネット各委員会の職務を行います。
社会奉仕委員会は、社会奉仕、インターアクト・ローターアクト・ライラを含む新世代委員会の職務を、国際奉仕委員会は、世界社会奉仕・ロータリー親睦・国際交流・国際青少年交換の職務を、財団委員会は、ロータリー財団・米山奨学委員会の職務を行います。
小規模のクラブでは、クラブ奉仕委員会と奉仕活動委員会を常任委員会にして、クラブ管理・会員・職業奉仕・社会奉仕・国際奉仕・財団の各委員会を小委員会にすれば、少ない人数でも対応できますし、中規模乃至は大規模のクラブでは、小委員会を常任委員会にして、それぞれの具体的な専門分野を小委員会にすれば、ほぼ従来の委員会構成を踏襲した形で収まると思います。ただし、会員増強、会員選考、職業分類は会員増強委員会に統合、雑誌、会報、広報と、プログラム、出席はそれぞれ統合可能です。小規模クラブでは、ロータリー財団と米山奨学委員会を財団委員会に統合せざるを得ませんが、可能な限り独立させる方が望ましいと思います。
小規模クラブ委員会構成例
理事会 |
常任委員会 |
小委員会 |
具体的な職務内容 |
クラブ奉仕委員会 |
クラブ管理委員会 |
プログラム・出席・広報・雑誌 |
|
会報・インターネット・親睦 |
(クラブ内の諸活動 |
|
を担当) |
会員委員会 |
会員増強・会員選考・職業分類 |
|
ロータリー情報 |
奉仕活動委員会 |
職業奉仕委員会 |
|
|
社会奉仕委員会 |
社会奉仕・新世代(インターアクト |
(クラブ外の諸活動 |
ローターアクト・ライラ) |
を担当) |
国際奉仕委員会 |
世界社会奉仕・ロータリー親睦 |
|
国際交流・国際青少年交換 |
|
財団委員会 |
ロータリー財団・米山奨学 |
中・大規模クラブ委員会構成例
理事会 |
常任委員会 |
小委員会 |
クラブ管理委員会 |
例会 (含 プロク゜ラム・出席) |
広報 (含 雑誌・会報・インターネット) |
親睦 |
会員委員会 |
会員増強(含 会員選考・職業分類) |
ロータリー情報 |
職業奉仕委員会 |
|
社会奉仕委員会 |
社会奉仕 |
新世代 (含 インターアクト・ローターアクト・ライラ) |
国際奉仕委員会 |
世界社会奉仕 |
必要ならば 国際交流・ロータリー親睦 |
国際青少年交換 |
財団委員会 |
ロータリー財団 |
米山奨学 |
※これで、私の「ロータリー一口メモ」掲載は終わります。この1年、どうにか全ての週報に掲載することができました。長い間ありがとうございました。(2006-07年度会長 大愛恒雄)
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ロータリーの義務
2007/6/18
よく、ロータリアンの三大義務として、会費支払、例会出席、機関紙購読があげられますが、果たしてそれだけでしょうか。また、ロータリアンの義務が存在するのならば、当然のことながら国際ロータリーの義務も、ロータリークラブの義務も存在するはずです。
私たちは国際ロータリーの定款・細則および標準ロータリークラブ定款に拘束されており、これらを変更できるのは規定審議会のみであることが定められています。すなわちこれらの三つの規約の中に国際ロータリーやロータリークラブやロータリアンの義務が定められており、それ以外のR I理事会の決定やクラブ細則は義務ではなく、単なる要請事項乃至は推奨事項に過ぎないということがいえます。
そこで、国際ロータリーの定款・細則および標準ロータリークラブ定款の中から、国際ロータリーやロータリークラブやロータリアンが遵守しなければならない義務を抜粋してみました。
国際ロータリーの義務
- ロータリーの綱領を推進するようなプログラムや活動を追求しているR I加盟クラブやR I 地区を支援すること。
- 全世界にわたって、ロータリーを奨励し、助長し、拡大し、そして管理すること。
- R I の活動を調整し、全般的にこれを指導すること。
- 規定審議会をR I の立法機関とすること。
- R I の国際大会を開催すること。
ロータリークラブの義務
- 国際ロータリーに加盟すること。
- クラブの所在地域を確定すること。
- 毎週1回、定例の日時に例会を開催すること。
- 役員を選挙するための年次総会を開催すること。
- 会員数が50名未満のクラブは同一職業分類に属する正会員の数は5名まで、会員数が50名以上のクラブは同一職業分類に属する正会員がクラブ正会員の10パーセントまで認めること。
- クラブの管理主体は理事会とすること。
- すべてのクラブは、R I 定款・細則ならびに標準ロータリークラブ定款を遵守すること。
- 各クラブは半年ごとに、人頭分担金をR I に納付すること。
- 職業分類を有すること。ただし、リタイアして職業を持たない会員は、以前持っていた職業分類のまま在籍することができる。
- クラブの例会に出席すること。出席不可能な場合は欠席をメークアップすること。
- 入会金および年会費を納入すること。但し、移籍会員、他クラブに属していた元会員は入会金の納入を免除される。
- RIの機関雑誌または地域的なロータリー雑誌を購読しなければならない。
ロータリアンの義務
- ロータリーの綱領、R I 定款・細則ならびに標準ロータリークラブ定款を遵守すること 。
- 善良な成人であって、職業上良い世評を受けている者であること。
- 一般に認められた有益な事業または専門職務の持ち主、共同経営者、法人役員、支配人であること。一般に認められた有益な事業または専門職務あるいはその地方代理店または支店において、裁量の権限のある管理職の重要な地位にあること。上記の地位から退職している者であること、事業所または住居が、クラブ所在地域またはその周辺部にあること。
※2680地区PDG 田中 毅 氏「炉辺談話」より
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日本の常識は世界の非常識 ④
2007/6/11
1.参加意識
外国では、例会を含めたすべての会合における出席率は極めて悪く、その平均は60%前後だと思われます。この実態を反映して、ロータリーの60%ルールが生まれたのではないかと思います。日本のように100%登録を強制して、実質的な出席者数は問わないといった手法は通用せず、登録者数と出席者数はほぼ同じです。
その代わり、出席した限りは、たとえ例会時間が2-3時間かかっても、途中退席する人の姿を見ることは稀です。これは、国際大会や地区大会や大規模の研修会でも同様で、初日の参加者も二日目以降の参加者もほぼ変わりはありません。万難を排して一旦出席したからには、最後まで参加しようという意識の強さを感 じます。
日本ではどうでしょうか。食事とクラブの議事が済んで、これからいよいよ例会プログラムのメインである卓話に入ろうとする矢先に、ぞろぞろと列を作って退席するビジターの姿に、苦々しい思いをするのは私だけではないでしょう。どうしても席を外さなければならない急用が出来たのならばいざ知らず、前後2週間もあるメークアップ期間中のわざわざ所用のある日を選んで、メークアップをする必然性はないはずです。折角出席した例会です。最後まで参加することが義務であると共に礼儀であると考えるべきでしょう。
昨年の大阪国際大会で、初日に、あの巨大な大阪ドームを埋め尽くしたロータリアンが、二日目以降にはアリーナにまばらにしか見当たりませんでした。どこで開催される国際大会でも、開会式にだけ出席して、後はほぼ全員が観光旅行に出かけてしまうのが、日本のロータリアンの現実の姿です。
2.SAAの権限
SAAはロータリーのあらゆる会合において、開門、閉門、会場の出入り、会場の案内、議事運営、食事など、その会合が秩序を守って円滑に進行するために最高の権限を与えられた役職です。会場においては、会長や理事などの役割を越えた絶対的な権限を持っているので、すべての参加者はSAAの指示に従わなければなりません。従って、クラブのSAAは会長経験者、RIや地区レベルではパストガバナーなどのベテラン会員をこれに充てるケースが多いようです。
国際大会などの大規模な会合では、ベテランのパストガバナーの中から選ばれたSAAを中心に、一般会員の中からボランティアとして参加した多数の副SAA がこれを補助します。クラブにおいても、ベテランのパスト会長がSAAを務め、さらに会員数の10%程度の副SAAがこれを補助するのが好ましいと言われています。
日本では、SAAがニコニコ箱を管理するという習慣が定着しているようです。そのために、会合の秩序を守るという本来の役割が軽視されているのはおかしな話です。
3.会長経験の意義
外国でロータリアンから名刺をもらうと、会長経験者は必ずPP (Past President)という肩書きを付けていることに気づきます。中にはCP (Charter President)という肩書きを自慢そうに示す人もいます。
ガバナー、ガバナー補佐になるためには、クラブ会長を全期間経験することが義務付けられていますから、外国では、クラブ会長を経験することは、シニア・ロータリアンになるための出発点に過ぎないと考えている人が多いようです。従って、何時でもシニア・ロータリアンになれる資格としてPPという肩書きが重要視されているのです。
日本では20-30代で入会する人は稀ですから、若くて会長に就任する人も稀です。従ってガバナーになるのも遅く、理事はさらに遅く、RI会長を務めるのは年齢的に不可能というのが現状です。クラブ会長を務めることが、クラブに対する最後のお勤めだと考えてはいけません。なるべく若い内に会長を務めて、会長を務めたことが、ロータリーの世界で対外的に羽ばたく最初のステップだと考えて、PPという肩書きを大切にしてください。
2680地区PDG田中 毅氏『炉辺談話より』
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日本の常識は世界の非常識 ③
2007/6/4
1.クラブの個性
日本のクラブの委員会構成を見ると、ほとんどのクラブが同じような委員会構成を採用しています。中には、推奨ロータリクラブ細則と一言一句変わらない委員会構成を採用するように、カバナーが指導している地区もあるようです。旧推奨クラブ細則は会員200名程度のクラブを想定して作られていたために、多くの委員会があり、30- 40名程度のクラブでは一人の会員が幾つもの委員会を掛け持ちしなければなりませんでした。新しい推奨細則ではかなり委員会の数を減らすことが可能になりましたが、今度は常任委員会や理事の定数を巡って混乱が起こっているようです。推奨細則の冒頭に「本細則は単に推奨されるに過ぎない。RI定款・細則、クラブ定款と矛盾しない限り、クラブ自身の事情によって変更することができる」と書いてあるにも関わらず、これに拘りすぎるクラブが依然として多いようです。クラブの委員会構成はクラブ細則で定めるために、クラブの自治権の範疇にあります。従ってどのように定めようとクラブの自由なのです。
外国のクラブや地区の委員会構成を見ると、実に個性に富んだ委員会が存在することが分かります。以下、その一例をご紹介します。
Fireman’s Committee 火消し委員会揉め事を解決する委員会
Donor Committee 臓器提供の斡旋をする委員会
Sunshine Committee クリスマスの贈り物をする委員会
History of Rotary Committee ロータリー史編纂委員会
Local trading Committee 市内における商取引を奨励する委員会
Business methods Committee 正しい事業運営を研究する委員会
皆様方のクラブを象徴するような、特徴的な委員会を作られては如何ですか。
2.ロータリーの会合に出席するときには身なりを整える。
日本のロータリアンはお行儀がよく、ほとんどのロータリアンは背広にネクタイ姿で、ロータリーのエンブレムをつけて会合に参加します。会社のユニフォームを着たままで例会に出席しようものなら、ひんしゅくの眼差しを浴びせられることは必至ですし、エンブレムでも付け忘れようものなら、罰金を免れることはできません。
定款・細則には、服装についての取り決めはどこにもなく、エンブレムについても使用する権利があると記載されているものの、それを付ける義務については何の規定もありません。
外国の例会では、背広にネクタイ姿の会員は半数以下です。皆、好き勝手な服装で、夏などは半袖がごく当たり前の格好です。特に女性会員の服装のルーズさは格別で、若いピチピチした肌ならば兎も角も、皺だらけの肌に、ノースリーブ、半パン姿には目をそむけたくなります。この傾向は、国際大会などの大きな会合でも同様であり、最近は、Tシャツにジーンズ姿の参加者にも、あまり違和感を感じなくなったのも不思議なことです。
3.例会の卓話
日本では例会の開催時間を1時間と定める習慣が固定化してしまったために、1時間を越えるとまるで定款や細則に違反したかのような非難が集中するようです。その影響を受けて、どのクラブも、食事15分、クラブ議事15分、卓話30分と定めた、極めて硬直的な例会運営を強いられているようです。この時間の制約が、画一的で魅力のない例会が開催される大きな原因の一つになっているのではないでしょうか。
私は、よくセミナーを依頼されますが、一つのテーマについて、相手が十分理解できるように話そうと思えば90分は必要になります。パワーポイントを使ってエッセンスを効率的に話しても最底限60分は必要です。30分の卓話時間では荒筋を述べるだけで終わってしまい、聴衆の心を打つような話を期待することは不可能です。年間に1度回ってくるか、こないかの機会ですから、十分時間をかけて準備し、それを発表する機会が与えられるべきでしょう。
外国では卓話時間の定めはありませんが、およその時間を告知してから話を始めるケースが多いようです。話の途中に退席する人はほとんどいませんが、その一方で、話の内容がつまらなかったり、面白くなければ、容赦なくブーイングを浴びせることや、冗長な卓話は強制的に終了させることすらあります。従って、卓話者は事前に十分準備をしてから、卓話に臨んでいるようです。
卓話が済むと、卓話の内容に関連した積極的に質疑応答が行われます。次々に質問攻めに会って、必死になって答える様は、卓話を聞くよりも面白く、卓話と質疑応答が一体となって、例会プログラムの中心になっていることを強く感じさせられました。
2680地区PDG田中 毅氏『炉辺談話より』
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日本の常識は世界の非常識 ②
2007/5/28
1.例会時間は1時間
日本では、例会時間は1時間と決めているクラブが多く、どんなことがあろうとも、絶対に時間延長を認めないクラブもあります。卓話者に卓話時間を厳守するように事前にSAAが注意するクラブすらあります。
すべてのクラブは、クラブ細則に基づいて管理運営を行っていますが、推奨クラブ細則には例会曜日と例会開始時刻は定められているものの、例会時間や例会終了時刻に関する記載はありませんし、独自のクラブ細則を定めているクラブでも、それを定めているクラブにお目にかかったことはありません。すなわち例会時間が1時間であるという規約上の根拠はないことになります。アメリカの大都市のクラブは1時間半の例会が大部分です。地方の小都市のクラブでは2時間以上の例会や時間が不定期の例会も珍しくありません。韓国や台湾は日本の影響を受けて、1時間の例会が主流ですが、その他のアジアの国やヨーロッパでは、何時終わるとも知れずに、延々と続く例会も珍しくありません。そんな長時間続く例会でも、途中で退席する会員の姿は殆どなく、例会日は一日どっぷりとロータリー漬けになるつもりで、例会に参加しているように見受けられました。従って、彼らの目には、36分間経ったら我先に退席する日本のビジターや会員の姿は、さぞかし奇異に写るに違いありません。
2.会費は食費を含めて支払う
日本のほとんどのクラブの年会費には食費が含まれています。これらの費用は半期分を前払いすることになっていて、仮に例会を欠席したとしても食費を返してくれるクラブはほとんどありませんが、不思議なことには、これに文句を言う会員はほとんどいないようです。従って、クラブの会計にとっては、ホームクラブの例会に欠席することと、ビジターの来訪は大いに歓迎ということになります。
外国では会費の中に食費は含まれておらず、食事代金はその都度キャッシュで支払うか、食券を購入するのが普通です。レストランやホテルで行う例会では、幾つかのメニューが用意されていて、自由に選ぶこともできますし、食事抜きで例会に参加することも可能です。食費は大都会の大規模クラブでも15-20ドル、田舎に行くと7-8ドルが普通で、日本よりかなり安いようです。
東南アジアの開発途上国では、ビジター・フィー2-3ドルで、お茶とクッキーだけで例会を開催しているクラブもあります。
ビジター・フィーとして平気で3,000円、5,000円取る日本が、世界から見ると特殊な国であることを認識する必要があります。
3.クラブにはクラブ事務局があり、事務局員がいる
RIが発行しているOfficial Directory (RI会員名簿)には、世界中のロータリークラブの情報が記載されています。2-3年前までは出版物として発行されていましたが、現在はCD-Romとして発行されています。その会員名簿を調べると、会員200-300人以上の大規模クラブと、日本、韓国、台湾以外のクラブには、「クラブ事務局」の欄が空白であることに気付きます。これは決して記載漏れではなく、世界中のほとんどのクラブは「クラブ事務局」を持っていないことを意味するのです。
米山梅吉がロータリーという組織を日本に輸入した際、すでに社会的に成功した実業家で構成されたアメリカの大クラブを手本にしたことと、東京クラブが財界の大御所を中心に組織されたことから、会員が自らクラブを運営するのではなく、事務処理をすべて事務局員にさせるという悪い先例を作り、それを、その後設立された他のクラブが真似をし、さらに日本のクラブとして出発した韓国や台湾にもその悪い先例が引き継がれたものと思われます。
大規模クラブは別にして、世界中のほとんどのクラブには、クラブ事務局はありませんし、事務職員もおりません。すべての事務処理は、幹事を中心にそれぞれのクラブ奉仕小委員会がこれを役割分担して行い、幹事の家がクラブ事務局を兼ねているのです。日本のクラブの会費が高いと不満を言う前に、その会費の半分以上を占めている事務所と事務職員の費用を節減する道を選ぶべきです。幹事、会計、出席委員会、親睦活動委員会、会報委員会などのクラブ奉仕関連小委員会が自らの役割を果たせば、事務局員は不要になるはずです。
2680地区PDG田中 毅氏『炉辺談話より』
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日本の常識は世界の非常識 ①
2007/5/21
1.第一例会には国歌を歌う。例会場には国旗を掲げる
戦争中、ロータリーは発祥の地がアメリカであることから、ロータリーはアメリカのスパイではないかと嫌疑をかけられたり、フリーメーソンの組織だという疑いをかけられました。その疑いを晴らすために、国に対して忠誠を誓うことを証明する意味で、例会で国歌を歌い、それが習慣化したものです。当時は、毎例会に特高が来て、サーベルをがちゃつかせながら例会を監視したそうです。国旗も同様な理由で掲揚され、今日に至っております。アメリカ以外の外国では、殆どの国では、国旗を掲揚したり、国歌を斉唱するといった習慣はありません。アメリカは移民の集まりなので、アメリカ人であるという自覚を持たせるために、国旗掲揚と国歌斉唱が盛んです。
2.例会ではロータリーソングを歌う
初期のシカゴ・クラブは会員同士の親睦と物質的相互扶助が盛んに行われていましたが、1907年にポール・ハリスは対社会的奉仕と拡大に活動方針を転換しました。さらに1908年に入会したアーサー・シェルドンは奉仕の必要性を強調したために、シカゴ・クラブは親睦・互恵派と奉仕・拡大派に分かれて、毎例会は激論の場と化しました。その刺々しい雰囲気を和らげるためにハリー・ラグルスが始めたのが、歌を歌うという習慣です。最初の頃は「Smiles」とか 「My Hero」などの大衆的な歌が好んで歌われました。
日本では、例会や各種の会合が始まる前や閉会する前に、儀礼的にロータリーソングが歌われますが、本来はそのような歌い方をするのではなく、どんなタイミングで、どんな歌を歌おうと一向に構わないわけです。
3.100%の出席率を目指す
日本の例会場には、ほぼ会員数に見合ったテーブルと椅子が用意されていますが、アメリカの大都会では必ずしもそうではありません。私はよく、マンハッタンにあるニューヨーク・クラブにメークアップに行きますが、会員数200名のこのクラブの例会場には、幾ら数え直しても100脚ほどしか椅子が用意されていません。ゲストは通常10名程度で、殆どは外国のロータリアンで、近郊からメークアップするロータリアンの姿を見ることは稀です。マンハッタンにはもう一つ、アッパー・マンハッタン・クラブがありますが、このクラブは黒人中心のクラブで、白人が行くことはほとんどありません。ニューヨーク近郊には小さなクラブが数多くありますが、これらのクラブにメークアップする、近隣クラブのロータリアンの数はごく僅かです。この傾向は、シアトル、ロスアンゼルスといった大都会でもまったく同様です。
すなわちアメリカの大都会のクラブでは、例会に出席する会員は半数くらいしかなく、例会を欠席してもほとんどメークアップをする人はいないのです。ロータ リーの出席規定を厳格に適用したら、半分くらいの人は退会を余儀なくされるのが、現在のアメリカの状況です。会員数が半減していないことは、出席規定が完全に空文化していることを意味しているのです。従って、クラブや個人が連続出席100%を目指して努力する日本の姿は、彼らの目にはクレージーとしか写らないのでしょう。
4.ロータリーの会合は、点鐘で始まり、点鐘で終わる
日本では、あらゆるロータリーの会合は開会点鐘で始まり、閉会点鐘で終わります。これは地区大会であろうと、クラブ例会であろうと、まったく同じで、点鐘 で始まり、点鐘で終わるのが当然だと思われていますから、点鐘を鳴らすのを忘れようものならば、まさに罰金ものです。
点鐘についてはどこにも取り決めはありませんが、外国ではどうしているのでしょうか。
私が参加した10回ほどの国際大会は、開会宣言で始まり、蛍の光で終わり、点鐘はありませんでした。
例会は、国やクラブによってかなり違いますが、点鐘を鳴らすのは珍しい部類にはいるのではないでしょうか。ヨーロッパや東南アジアでは、何時始まって、何時終わるのか、さっぱり判らない例会も珍しくありません。アメリカでは点鐘を鳴らすクラブもありますが、法廷やオークションで使う木の板を木槌でコンコンと鳴らす光景をよく見かけます。それも開会や閉会のときに儀礼的に鳴らすのではなく、スピーチを始める前などに注意を喚起するために使うことが多いようです。
2680地区PDG田中 毅氏『炉辺談話より』
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RI復帰
2007/5/14 (ロータリー歴史探訪・日本編)
1946年1月、東京水曜クラブの小松隆会長が、GHQのバラード大佐に託したRI復帰に関する要望書が、ラブジョイ事務総長を経てRI理事会に提出されましたが、5月24日に、「日本の希望は充分理解するが、現在の時点では確答はできない。RIの記録として残しておく。」という返事をもらいました。1947年1月に、大阪金曜クラブ飯島会長も、同様な要望書を元会員Mayを通じてRI本部に送りました。
1947年 3月18日に東京の工業クラブでRI復帰連絡協議機関設置のための懇談会が開かれ、7月16日に第1回復帰協議会が開かれて、日本全国から14クラブ、32名の有志と、駐留軍のMossが東京工業倶楽部に集まって協議をしました。
1947年 7月の記録によると、当時各曜会と名称を変えて例会を続けているクラブは18であり、その会員数は 1,050となっています。ロータリーの名称こそ使えなかったものの、各曜会の例会には、駐留軍として在日していた連合国のロータリアンが再三訪れ、盛会であったと言われています。
1948年7月14日に、第2回復帰協議会が開催され、16クラブから40名が参加しています。
1948年9月1日、インドに駐在していたRI中央アジアの副事務総長ジョージ・ミーンズが、日本を訪れ、東京水曜会の例会に出席して、小松復帰協議会会長から、日本の実情を聞くと共に、大阪金曜会やその他の七曜会を訪れて、日本のロータリークラブが名前こそ変えながらも、脱退以前と変わることなく例会を続けている状況をRIに報告します。
1949年3月9日に再び日本を訪れたミーンズは、RI理事会が同年6月の国際大会までに日本のロータリーを復帰させることを決定したことを知らせます。この吉報を受けた協議会は、このことを各クラブに知らせると共に、その準備にかかり、東京水曜会は3月16日に解散して、3月23日にチャーター・メンバー157名で創立総会を開催し、3月29日にはRIから以前の登録番号855のままで認証を受けました。これに続いて京都、大阪、名古屋、神戸、福岡、札幌の 7クラブが順次RIに復帰し、第60地区として戦後の日本のロータリー運動が再開されることになります。
東京クラブのチャーター・ナイトは同年4月27日に開催され、マッカーサー元帥(後に東京クラブ名誉会員)や吉田茂首相からの祝辞が披露されました。
公職追放者を会員として認めるか否かが、大きな問題点でしたが、経済界における公職追放者を会員として認めないならば、クラブとしての体をなさないと言う日本側の主張が受け入れられたため、日本のロータリーは戦前からの指導者を失うことなく再出発することができたのです。ただし、日満ロータリー連合会の設立に大きな活躍をした芝染太郎の名前は、東京クラブの会員名簿にはありません。
RI脱退中もロータリー例会そのままの非公式例会を続けていたことが大きな評価を受け、クラブ歴、個人歴共に、この期間を含めることが認められることになりましたが、RI復帰に際して、戦前の日本のロータリーの強引な手法を牽制する意味から、次の条件が付けられました。
(1) 離脱中の七曜会の解散
(2) RIの定款・細則の厳守
(3) RIへの義務の完全履行
更に、「各クラブはそれぞれRIに直結しているので、クラブが地区や国単位で固まって行動を起こさない」ことを誓約して、戦後の日本のロータリーは歩み始めます。
-------- ロータリー歴史探訪・日本編 完 --------
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RI脱退
2007/5/7 (ロータリー歴史探訪・日本編)
この頃から、ロー タリアンの涙ぐましい努力にもかかわらず、ロータリーに対する批判は収まるどころか、ますます激しさを増していきます。クラブ旗の隣に国旗をかかげ、月初めに国歌を歌うという、現在では極く普通の例会風景も、実は国家への忠誠心を示すために考えられた、この当時の歴史的な名残だといわれています。
ドイツの42クラブ、オーストリアの11クラブ、イタリアの34クラブが解散し、日本でも解散を真剣に考えるクラブがでてくる一方で、弾圧による解散に先立って、國際ロータリーから自発的に離脱し、別組織として、その精神性を維持する方法を選ぶべきだという意見がでてきて、クラブ間の調整が取れない状態になってきました。
日満ロータリー連合会は緊急会議を招集して、クラブ存続の決議をして、次の電文を全クラブに発送しました。
本日の委員会に於いては此の侭存続するに決す。ロータリーの精神には疑問の余地なきと信ずるも、尚ほその筋の意向を確かめんとす。機構の改正を要すべきものあらば慎重検討改善を要す。
連合会の努力にもかかわらず、8月8日に静岡RCが、引き続いて、8月12日に大阪RC、8月19日には岡山RCが解散します。
そこで、1940年8月20日、日満ロータリー連合会は、各クラブに対して、次の通達を出しました。
1.日満に於ける各クラブを国家単位に改組する。
2.之を直ちにRI理事会に提出し、同時に全世界のRCに通告する。
3.この提案が実現するまで、日満ロータリーはRIとの関係を一時停止する。
4.RIがこの提案を受け入れない場合は、RIから脱退する
その後、8月21日には京都RC、その後も広島、高知、金沢と解散が続いたため、9月4日、日満ロータリー連合会は総会を開催して、RIから脱退して、独自の日満連合会を組織することを決定し、その創立委員25名を指名しました。
東京RCが解散を決定したのは、9月11日のことであり、米山梅吉は、重い足を引きずるようにしながら壇上に立って、最後の挨拶をしました。
9月11日、日満連合会は最初の会合を開いて、既に大阪で作られていた定款を基に協議して新定款を起草し、9月25日の会合でこれを採択し、この会の名称を「七曜倶楽部連合会」としましたが、この会がどのように運営されたかの資料は残っていません。
東京水曜会は1940年11月15日に190名が入会して、12月4日に帝国ホテルで創立総会を開き、大阪金曜会は99名が入会して11月15日に創立総会を開きました。その他の各クラブもロータリー・クラブの名前こそ外したものの、各曜会と名を変えて、従来のロータリー・クラブ時代と同じように、毎週一回の例会を開いていました。
ロータリーの組織が壊滅したにもかかわらず、その活動が継続されたことは驚異に価する事実です。戦前の日本のロータリアンの心にロータリーの理念が完全に理解されていたが故、組織がなくなっても、運動自体は何ら変ることなく継続されていたのでしょう。
終戦直後の1946年、日本ロータリーの創始者である米山梅吉と福島喜三次が相次いでこの世を去り、翌1947年 1月にはポール・ハリスも78才の天寿を全うします。
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日満ロータリー連合会 (3)
2007/4/23 (ロータリー歴史探訪・日本編)
出発に先立って、米山梅吉はRI会長に宛てた次のような親書を、芝に託しています。まず前会長ウイル・メーニァの「歴史と風俗と習慣とは各国悉く異なれり。故にこれを統一的に取り扱わんとするのは誤りにして、思想上の傾向に適合せしむべく各々自由ならしむべし。」の言を引用し、「東西欧亜では甚だ風俗習慣が違っているが、ロータリーの目的は明白であるから、これを忠実に実現出来れば、他の細項は各区の自治に任せばよいので、ロータリーの開祖ポール・ハリスさえ、ロータリーの到達すべき運命に適応せんとせば、ロータリーは常に徐々に進化し、又或る場合には急進的改革をも必要とすると言っている。大会参列の諸君はこのRI機構の進化変遷に必要に注目し、第70区が提案する機構改正に虚心坦懐検討されんことを希望する。余は急進的改革を希望するのではない。ただその進化を促進し、将来の宿望に適応させる必要を認めるものである。隣邦第79区ガバナー、フォン・セク博士は最近死去したが、その数日前余の所論に共鳴し、一緒に支那のロータリー拡張と永久性のために共同してつくしたいと述べた。」と結んでいます。
この第70地区からの「RIJM設立」についての提案は議案39-9として6月19日の立法委員会に提出されましたが、その際、芝染太郎は米山梅吉から託された前述の書簡を読み上げ、その全文が大会議事録に発表されました。
なお、この提案は審議されることなく、芝によって撤回されました。芝は渡米後、この提案の取り扱いについて、チェスレー・ペリー事務総長やRI理事と何回も非公式会談を重ねましたが、賛否両論がでて結論は得られませんでした。特にアルゼンチン、ペルー、ブラジルはこの提案を機会に、南米における中間管理組織を作ることを考えていたため、RIはこの提案は日満だけの問題ではなく、RIの根本を揺るがす問題だと考えました。もしもこの提案が審議されれば、大会が紛糾することは必至であるとみたRI理事会は、この提案を責任を持って理事会が対処することを確約した上で、芝に撤回を要請し、芝もそれを受け入れたわけです。
以上のような経緯をたどって、この提案はRI理事会の付託となり、1939年7月から、日本の第70区が第70区、第71区、第72区に分割されて、日満地区46クラブが、自治地域制度の適用を受けることになります。
このようにして、日本は3地区に分割されました。
第70地区・・・名古屋以東の20クラブ
第71地区・・・西日本、台湾の19クラブ
第72地区・・・朝鮮、満州の8クラブ
第1回に日満ロータリー連合大会は、1940年5月、横浜で開催され、会長には米山梅吉が選ばれましたが、これが戦前の日本ロータリーの最後の大会となりました。この大会では、ロータリー綱領の邦訳を改めること、国名をニッポンに統一すること。皇軍への感謝、傷病兵慰問などが決議されました。
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日満ロータリー連合会 (2)
2007/4/16 (ロータリー歴史探訪・日本編)
1922年にヨーロッパで最大のロータリークラブ数を擁する、イギリスとアイルランドがRIBI Rotary International British & Ireland を結成したことから、世界各地で、RIの管理から離れて、地域分権を求める気運が高まってきました。日本も、これに倣って、日本、満州、朝鮮でRIJM Rotary International Japan & Manchuria を結成しようとする[ロータリーの日本化]が真剣に論議されるようになりました。
当時、韓国と台湾は日本の統治下にありましたから、問題はないとしても、満州が70地区に含まれていたことは、RIが満州を日本と一体のものと認識していたものと考えられます。これに対して、1932年にホノルルで開催された第4回太平洋地域大会で、中国のクラブから是正するようにという提案がありましたが、提案を取り上げる者は誰もいませんでした。(大会に出席した平生釟三郎談)
1931年の満州事変を契機として日米間の雲行きは怪しくなり、1933年の国際連盟脱退によって、それは決定的なものになります。その経過の中で、ロータリーの本部がアメリカにあるという理由で、陰に陽に、軍部や官憲からの圧力を受けることになります。ロータリーはアメリカのスパイであるとか、フリーメーソンであるといった批判に対して、ロータリーのモットー Service above self は滅私奉公であると反論した記録が残っています。
そういった批判を避けるために、RIBIのようにRIからの中央集権から離れて、国家単位で管理してはという意見がロータリアンの間で起こったため、1935年に京都で開催された地区大会にRI会長代理として出席したサットン元RI会長にその旨を申し入れましたが、色よい返事は貰えませんでした。
翌1936年に神戸で開催された地区大会では、「地区の特殊事情に応じ、ロータリー精神の普及徹底を期するため、RIの機構を地区単位に改めるよう希望する」という決議をしました。同様な提案が東京の地区協議会でもだされましたが、ここではこの機構改革はロータリーの国際的意義を弱めるという理由で否決されています。
1938年比叡山で開かれた地区協議会において、東京から「RIの組織は中央集権に偏せず、その世界的拡大の趨勢に適応すべく、加入クラブの国情、風俗習慣を尊重し、地方的自治分権に進展するを以って、ロータリーの本義とし、もってその主義目的を全世界に普遍し、人類の福祉に資せざるべからず。故に第70区改正案を研究、作製し、来るべき国際大会に提出する準備を整うべく、研究委員会を組織されんことを提案する。」という提案がだされました。
この提案には米山梅吉も賛成して、自ら提案主旨の説明をし、異議なく採択されました。これに基づいて、クリーブランド国際大会に提出するために、宮脇富パスト・ガバナーを中心とする研究委員会によって作られたのが、俗に「宮脇案」と呼ばれるものです。
1939年に来日したRI副幹事のポーターは、東京、横浜で意見交換をして、宮脇案に一応の理解を示しましたが、その実現の難しさを説くと共に、急いで行動しないようにという忠告をしています。
ポーターの忠告に従って、東京クラブは、芝染太郎幹事を横浜、神戸、京都、大阪に派遣して、意見を集約し、次の結論をだしました。
- 国家を基調にした機構は、1927年のオステンド大会で否決されているので、実現困難である。この決定を無効にしたとしても、日満を一つの国家単位とするには数年かかる。
- 日満の現状を正当なものと認める者が増えているので、この希望は承認されるとは思うが、そのためには、現在の70地区を数区に分割して、これを合体したものを一つのロータリー地域として、自治管理する方が良い。この方法は既にイギリス、フランスで認められている。
この意見に従って、ガバナーや諸クラブ会長が東京に集まって協議した結果、この案を取りまとめて、1939年の別府の地区大会に提案することになりました。さらに、この別府大会の決議に基づいて、芝染太郎が特派代表として、同年開催されたクリーブランド大会に出席して、RIとの交渉に当たることになりました。
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日満ロータリー連合会 (1)
2007/4/9 (ロータリー歴史探訪・日本編)
1935年、京都で第7回地区大会が開催され、新作の日本語のロータリー・ソングとして、「奉仕の理想」と「われらの生業」が発表されました。
1936年に神戸で行われた地区大会では、「紀元2600年に日本で国際大会を開催する」「シカゴの中央集権を緩和して地区文分権制度に改める」「アメリカのロータリーにおける東洋人差別是正」の案件を審議する予定でしたが、たまたま神戸の直木太一郎が提出した「大連クラブのロータリー宣言を70地 区のロータリー宣言として採択する」という動議を巡って大混乱になりました。米山梅吉は、国際ロータリーにおいて決定した[ロータリーの綱領]は一言一句 の変更は許されないと述べたのに対して、京都クラブの会長田辺隆二は、それは英文のことであって、その精神を日本文で表すものがあってもよいと反論し、村 田省蔵パスト・ガバナーは、この大連宣言を推奨したのは自分であり、これは立派なものであるから、これを英訳して、[ロータリーの綱領]を改正するよう に、RI本部に提案したらよいと述べました。結局、大阪の里見純吉の提案によって、この宣言は、ロータリーの綱領の変更ではなく、内容を補足するものとして、大会宣言することで収拾されました。
この[大連宣言]は、大連クラブの古沢丈作が、[ロータリーの綱領]と[ロータリー倫理訓]の真髄を、格調高い日本語で適格に表現し、1928年に発表した、最初のドキュメントとして、高い評価を受けています。
<大 連 宣 言>
須らく事業の人たるに先立ちて道義の人たるべし。蓋し事業の経営に全力を傾倒するは因って世を益せんがためなり。ゆえに吾人は道義を無視していわゆる事業の成功を獲んとする者に与せず。
成否を日うに先立ち退いて義務を尽さむことを思い進んで奉仕を完うせんことを念う。自らを利するに先立ちて他を益せむことを願う。最も能く奉仕する者、最も多く満たさるべきことを吾人は疑わず。
あるいは特殊な関係をもって機会を壟断しあるいは世人の潔しとせざるに乗じ巨利を博す、これ吾人の最も忌むところなり、吾人の精神に反してその信条を紊るは利のため義を失うよりはなはだしきは無し。
義をもって集まり、信をもって結び、切磋し琢磨し、相扶け相益す。これ吾人団結の本旨なり。しかれども党をもって厚くすることなく他をもって拒むことなく私をもって党する者にあらざるなり。
徒爾なる角遂と闘争とは世に行なわるべからず、協力をもって博愛平等の理想を実現せざるべからず、しかり吾が同志はこの大義を世界に敷かむがために活躍す吾がロータリーの崇高なる使命ここに在り、その存在の意義またここに存す。
表現が難しくて難解だといわれる方のために、敢えて口語訳をつければ、次のようになります。
職業人である以前に、道義を重んじる人でなければなりません。自らの事業経営に全力を傾注するのは、社会に貢献するためです。従って、ロータリーは、道義を無視して、事業を成功させようという人の味方ではありません。
事業の成功を考える前に、社会への義務を果たすことを考えて、奉仕に専念してください。自分の得を考える前に、他人に与えることを考えてください。最も能く奉仕する者、最も多く報われることを、ゆめゆめ疑ってはなりません。
特別な関係による機会を利用したり、一般の人が決して取らないような機会に乗じて、大儲けをすることは、最も好ましくない行為です。ロータリーの精神に反して、ロータリーの信条を踏み外すことは、儲けるために、道義を踏み外すのと同じことです。
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ポール・ハリス訪日
2007/4/2 (ロータリー歴史探訪・日本編)
1935年、ポール・ハリス夫妻が、RI会長ヒル夫妻と共に日本を訪れました。2月下旬にマニラで開かれる第5回太平洋大会に参加する途中の訪日で、当初は2月6日に横浜に到着する予定でした。
1月末に、プレシデント・クーリッジ号に乗船し、日本に向かって航行中である旨、電報による連絡がありましたが、悪天候のため順延して、2月9日午前5時に横浜に到着しました。
横浜市長、鹿島東京RC会長他多数の出迎えを受け、横浜のニューグランド・ホテルで小憩の後、10時30分、東京駅に到着しました。到着予定が大幅に狂ったため、当初予定されていたスピーチ等の全ての公式行事は中止となり、二重橋、明治神宮その他の市内観光の後、午後2時、帝国ホテルに到着しました。
小憩の後、ホテル前庭に月桂樹を植樹後、芝公園内の紅葉館で行われた歓迎会に参加しました。
御作り身/鮪、平目、胡瓜、山葵
御吸い物/すっぽん、葱、生姜
御蓋物/牛肉煮込、玉葱、隠元豆
御焼肴/鯛、生姜
御間い肴/あい鴨、鰻、百合根
御鉢肴/車海老、青唐辛子
御留椀/若鶏、人参、筍、青豌豆
御飯/米飯、新香
御水菓子/苺
なお、紅葉館での料理は次のように純日本式でした。
歓迎会の後、三越百貨店、御木本真珠を訪問し、夕刻、帝国ホテルに戻って衣装換えの後、午後6時から、東京會舘4階で行われた、東京RC、横浜RC主催の歓迎晩餐会に出席しました。
当時の記録によると、この歓迎晩餐会の模様を次のように紹介しています。
食堂は桜咲く隅田川の春景色にしつらい、洋風の窓や戸は日本の提灯で隠し、三囲神社を模した建物まであり、別室では日本古流の茶室で抹茶の接待が行われ、一行は此の接待に充分満足気であった。晩餐会はロータリー・ソング(Rotary my Rotary)で始まり、食事中日本の三曲合奏および声楽家の独唱があり、一方舞台では見事な桜踊りがあった。ポール・ハリスはたって、君が代のオーケストラの演奏の中に天皇陛下のためにトーストを捧げた。又日本側からは東京RCの名誉会員前首相斉藤実子爵が米国大統領の健康を祝し、その間米国国歌が演奏された。
デザート・コースに入って東京RC会長鹿島精一が、又横浜RCの副会長ソマーラーがそれぞれ会を代表して挨拶し、ついで米山梅吉が歓迎の挨拶を述べた。これに続いて名誉会員徳川公も感想と挨拶を述べ、次にヒルRI会長の謝辞があり、最後にポール・ハリスが感激にみちた挨拶をした。
歓迎晩餐会終了後、午後9時30分、東京駅発の列車に乗車し、翌朝7時50分、京都に到着。京都ホテルで朝食の後、車で京阪国道を通り、新大阪ホテルへ向かい、午後1時より開会された、京阪神3RC連合の歓迎会に参加しました。
この歓迎会には、京阪神の他、岡山、門司、名古屋、ハルピン等のロータリアン130名が参加しました。ロータリー・ソングに始まり、来賓紹介、村田ガバナーの歓迎の辞の後、ヒルRI会長、ポール・ハリスの答辞がありました。席上、ヒル会長には七宝香炉、ポールにはブロンズの胸像が贈られました。
晩、車で神戸に向かい、プレシデント・クーリッジ号でマニラに向けて出航しました。なお。この便には、太平洋大会に参加する多数の日本人ロータリアンが乗船しました。
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第70区時代
2007/3/26 (ロータリー歴史探訪・日本編)
1928年7月に第70区が設置され、米山梅吉が初代ガバナーに就任しました。
同年10月1日から4日間、東京において、第2回太平洋会議が開催され、外国からはサットンRI会長夫妻を始めとして、109名のロータリアン夫妻、日本からは233名のロータリアンと226名のロータリアン家族が参加しました。アメリカ、ハワイには天洋丸が就航して横浜まで、オーストラリア、ニュージーランドには安芸丸が就航して、神戸までロータリアンを運びました。
なお、第3回の太平洋会議は、1930年にシドニーで開かれて日本からは11名が参加、第4回は1932年にホノルルで開かれて2名参加、1935年のマニラ大会には16名が参加しています。
米山梅吉は1929年の京都の地区大会でガバナーに再選され、1930年の神戸地区大会で3選されます。1931年横浜大会で井坂孝がガバナーに選ばれ、1932年の大阪大会で再選、1933年の東京大会で村田省蔵が選ばれ、1934年名古屋大会で再選されますが、それ以降は毎年交代するようになりました。
1930年にロータリー創立25周年を祝う国際大会がシカゴで開催されました。日本を代表して出席した貴族院議長徳川家達公爵(東京クラブ名誉会員)が儀杖黒騎隊による送迎をうけた上、大会のスピーカーとして「民族の勃興」と題する演説を流暢な英語で行って、大きな感銘を与えたと言う記録が残っています。
国際大会参加に関しては、当初、大会に代表者を送ることも、大会の意義も判らなかったため、日本からの大会参加は1924年のトロント大会が始めてです。その後の大会には、RI脱退の1940年ハバナ大会まで、平均2-3名が参加しています。(最高記録は1937年ニース大会の12名)
全国レベルの最初の会合は、1926年に大阪で開かれた都市連合会Inter-City-Meetingです。当初は、懇親会として準備を進めていましたが、折角集るのだから協議事項も入れようということになって、
① 今後、毎年開催するや否や
② 日本ロータリー連盟設置について
③ 日本各地にロータリークラブを拡大すべきか
④ 定款・細則を邦訳する必要があるか
⑤ ロータリークラブの存在や活動を広報する必要があるか
について、議論しました。午前中の会議に続いて午後は大阪見物、夜は大阪クラブの4階で懇親会を行い、家族を合わせて138名が参加しました。
第2回の都市連合会は1927年東京で、第3回は1928年名古屋で、第4回は1929年に京都で開催される予定でしたが、この年に70区が設定されたため、これが第1回地区大会に変更されました。
初めての地区大会なので、全く様子が分からず、ホストの京都クラブはその準備が大変だった模様です。夜来の雨も上がって、1929年4月27日午前10時に京都華頂会館で開会。京都クラブ副会長シャイベリー夫人のピアノ伴奏らよる「Rotary」の合唱に続いて、米山ガバナー、京都市長の挨拶、各地ロータリークラブ代表の現状報告の後、協議に移りました。次期ガバナーに米山梅吉が再選され、次の大会開催地が神戸に決定しました。東京クラブから提案されていたHe profits most who serves bestを撤回する案は保留となり、その他7項目が決議されました。
知恩院で精進料理の昼食をとり、島津製作所、歌舞練場を訪れ、夜は京都ホテルで晩餐会が行われました。その席上、米山夫人に薔薇の花を入れた銀の花瓶が贈られるはずが、薔薇の代わりに藁が届いて大騒ぎになったというエピソードが残っています。翌日は、エクスカーションとして京都御所と日活撮影所、嵐山を訪れています。
第2回地区大会は翌1930年5月に、RI会長代理としてフランク・マルホランド氏を迎えて、神戸で開催され、10クラブ、会員家族合わせて437名が出席しました。この席上で、奉天クラブから、日本語のロータリー・ソングを作ること、奨学金制度を作ること、ガバナー月信を発行することが提案されました。
地区大会はその後1931年横浜、1932年大阪、1933年東京、1934年名古屋、1935年京都、1936年神戸、1937年札幌、1938年ソウル、1939年別府とRI離脱まで開催されています。
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ロータリーの拡大
2007/3/19 (ロータリー歴史探訪・日本編)
福島喜三次の大阪転勤を機会に、関西財界人の間にロータリーに対する関心が高まり、英米訪問実業団の一員として渡米した星野行則がシカゴへ赴き、直接、RI事務総長チェスレー・ペリーと会談して、大阪クラブ設立の意向を伝えました。
日本におけるロータリーの拡大に積極的だったチェスレーは、拡大に関する直接の指導を与えると共に、星野に大阪クラブ設立に関する全権を委嘱しました。帰国した星野は、福島と協力して拡大の作業を進め、1922年11月1日に、第1回創立準備会を大阪ホテルで開催します。その際集った人は10人でしたが、いろいろと奔走の結果、11月17日には、チャーター・メンバー25名によって、大阪クラブの創立総会が行われます。初代会長は星野行則、副会長村田省蔵、幹事福島喜三次、会計八代則彦、理事平生釟三郎、片岡安、木村清です。
RIから、1923年2月10日付けで加盟承認され、登録番号は1349です。
当初は、月2回の例会でしたが、1923年8月からは、毎週例会に改め、管理運営面の充実、出席規定の遵守、例会の時間励行、クラブ歌の制定、親睦会、定款翻訳などが積極的に実行されました。
当初日本は、RIによる直轄クラブとして無地区Non-District Territoryでガバナーもなく、クラブ拡大に不便な状態だったので、RIは米山梅吉をSpecial Commissionerに任命して拡大に当たらせました。1924年には大阪クラブをスポンサーとして神戸クラブが、東京クラブをスポンサーとして名古屋クラブが創立され、更に、1925年には京都、横浜と順次クラブが増えていきました。
次いで、井坂孝がSpecial Commissionerに任命されて、ソウル・クラブが設立され、三代目の平生釟三郎によって、大連、奉天クラブが設立されました。
日本に地区を設ける希望が高まったため、RIに地区設置を申請した結果、1928年7月、朝鮮、満州を合わせて第70地区として、RIより正式承認を受けることになります。正式認定とはいうものの、当時7クラブしかなかった地域を地区として承認することにはかなりの無理があり、日本の強引な提案にアジア各地のクラブからの反発もあり、RIもしぶしぶ了解したというのが真相のようです。
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関東大震災
2007/3/12 (ロータリー歴史探訪・日本編)
1923年 9月 1日、午前11時58分、突如として起こった関東大震災によって、死者9万人、負傷者10万人、焼失68万戸、全壊1万1千戸という大災害となって、首都圏は壊滅的な被害を受けました。RIの対応は迅速で、震災直後の9月 4日にはRI会長ガイ・ガンディカーから、の励ましの電報が届きます。
東京が壊滅的な状態であったため、大阪クラブが仲介の労をとり、福島幹事が電報をRI本部に打電しています。
9月10日にはサンフランシスコ・クラブより1,000ドル、翌11日にはニューヨーク・クラブから1,000ドルの義捐金が到着し、16日にはRI本部より大阪クラブに書状が届きました。
相談の結果、義捐金は東京クラブが受け取ることになり、その旨、シカゴ本部に連絡されました。その後世界中のロータリークラブから続々と義捐金が送られ、その合計は最終的に74,000ドルに達しました。クラブの内訳は、アメリカ375、イギリス60、カナダ40、キューバ6、メキシコ4、オーストラリア3、ニュージーランド、オランダ、フランス、パナマ各2、ペルー、南アフリカ、フィリピン、ブラジル、ノルウェー、デンマーク各1、合計16ケ国、503クラブに及びました。
東京クラブは特別委員会を設けて、慎重にその使途を検討し、木下産院の建設、小学校の備品整備、ロータリー・ホーム建設、殉職警察官の遺族に対する援助活動を行っています。なお、義捐金の総額については、資料によって幾つかの異なった集計がでていますが、RIに提出された、1924年5月26日の最終報告書は次の通りです。なお当時の為替相場は\100=US$49です。
孤児院は東京市の希望を取り入れて、東京クラブ会員清水釘吉の設計施工による180坪の鉄筋コンクリート二階建で、一階には事務室、保母室、裁縫室、調理室、浴室、二階には居室6室、集会室を設け、さらにミシン15台を備えた、当時としては最新の施設で、Rotary Homeと命名されました。
1924年10月10日に完成し、当日は、大勢の孤児や東京クラブ会員家族が参加して、開館式が催されました。
この建物は10年後に一部修復されましたが、RI脱退後、東京市に管理が移されて、Rotary Homeの名称も消え、その後戦災によって焼失しました。
なお、この震災によって全ての事務用品、書類、認証状、ロータリー旗を失った東京クラブに対して、シカゴ本部より一切の備品が送られてきました。
RIから送られてきた25,000ドルに関しては、国際理解と親善のための基金として貯めていたアーチクランフ基金(現在のロータリー財団基金の前身)を取り崩したものという説と、RIの災害基金から支出したという説がありますが、何れが正しいかは不詳です。 東京クラブは、このロータリーの友情を契機にして、今までの月一回の例会を毎週開催するよう改めたと言われています。
杉村広太郎の協力によって会報発行の準備が進んでいた矢先に大震災が起こって、一時中断していましたが、1925年5月から、北島亘によって会報が発行されました。この会報はTokyo Rotary Club Bulletinと名づけられた英文の会報で、外国のロータリアンから高い評価を受けています。
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日本ロータリー誕生
2007/2/26 (ロータリー歴史探訪・日本編)
日本にロータリー運動をもたらすきっかけを作ったのは福島喜三次FUKUSHIMA Kisojiです。福島は一ツ橋大学を卒業後三井物産に入社して、明治38年に渡米し、ニューヨーク、オクラホマ、ヒューストンを経て、1912年頃、ダラスの三井物産の現地法人 Southern Products 社の支配人に就任しました。既に同社のウイリアムWilliamがダラス・クラブの会員になっていたため、福島は1915年ころ、アディショナル正会員として、ダラス・クラブに入会します。その後、ウイリアムが、第一次世界大戦の勃発によってドイツに引き上げたので、正会員として1920年まで、同クラブに在籍した最初の日本人ロータリアンです。なお、福島の帰国後に、「島」某が彼に代わって入会したという記録が残っています。
米山梅吉との出会いは、1918年10月に目賀田種太郎男爵を団長とする政府派遣財政経済委員の一員として渡米した米山梅吉(三井銀行役員)が、1919年の正月をダラスの福島宅で過ごした時です。この訪米に際して、米山は、「メキシコの 境まで咲く 枯野花」「テキサスの 野の東や 初日の出」等の句を詠んでいます。その際、案内役を務めた福島から、ロータリーに関する話を聞いて、関心を寄せると共に、アメリカの幾つかのクラブを視察した模様です。
1920年 1月に帰国した福島は、アルバート・アダムスAlbert Adams 国際ロータリークラブ連合会会長から、年度内に日本にロータリークラブを設立してもらいたいという委任を受けて、米山梅吉と共に奔走しますが、年度末までに、創立に必要なチャーター・メンバーの数を集めることができず、期限切れとなってしまいました。
エステス・スネデコルEstes Snedecor 連合会新会長は、米山と福島に再度委任状を送ると共に、パシフィク郵船横浜支店長ジョンストンW. L. Johnstonにクラブ拡大の世話役に任命して拡大の協力を命じました。
1920年9月1日に設立準備会が開かれ、同年10月20日、チャーター・メンバー24名が集まって、銀行クラブで創立総会が開催され、東京クラブが誕生しました。なお、RIから正式に認証されたのは1921年4月1日(登録番号852)です。
初代会長には米山梅吉、幹事には福島喜三次、理事に伊東米次郎、樺山愛輔、小野英次朗が就任しました。
その後、1921年7月13日の理事会において、チャーター・メンバーに次の4名が加えられて、東京クラブのチャーター・メンバーは28名となりました。
東京クラブ創立における、ジョンストンの果たした役割は極めて大きく、1921年、彼の帰国に際して名誉会員に推薦しています。
福島は僅か二回例会に出席しただけで、1921年 3月に大阪へ転勤になり、大阪クラブの設立に関与した後、上海クラブ会員を経て、1932年10月、日本最初のパスト・サービス会員として東京クラブに再入会し、1939年には副会長を務めています。
創立当初の東京クラブの特徴は、前記の会員名簿からも判るように会員のほとんどが財界の大御所で占められていたことです。エリート中のエリートから選び抜 かれた大企業の社長や重役といった顔ぶれが並んでいます。この最初の人選が前例となって、戦前の日本のロータリーは功成り名を遂げた財界人が入るクラブと いう錯覚を生みだし、更に、社会的地位とロータリアンの質とを混同する過ちを冒すことになります。
米山梅吉の方針によってロータリーの奉仕哲学の探究に真摯な態度で取り組み、個人奉仕の原則もよく理解されていた反面、クラブ組織としての管理運営はあまり省みられなかった模様で。当初は例会も月一回であり、かつ、たびたび流会し、出席率も悪く、また規約に対する関心も薄かったと言われています。
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ポール・ハリスとその晩年 (2)
2007/2/20
1912年には、ロングウッド・ドライブに新居を構えて、ジーンの故郷の通りの名前にちなんで、カムー・バンク Comely Bank と名づけました。1916年には法律事務所をファースト・ナショナル銀行に移して事業の拡大を図っています。
病気勝ちであることに加えて、表面にでることを極端に嫌ったポールは、彼の生誕の地であるラシーン・クラブが、彼の業績を讃えて建設した記念碑の除幕式にも出席せず、愛妻ジーンの生まれ故郷で聞かれたエジンバラ大会にも出席していません。
1926年ポールは、健康が回復したこともあって、名誉会長として活動を再会します。バーミューダ・クラブを訪れて、大変な歓迎を受けますが、彼にとって一番嬉しかった出来事は、かつて彼が在学していたプリンストン大学のフランシス・パットン学長と再会し、ポールの業績に最大級の賛辞を送ったことでした。
このことが引き金になったのか、これ以降、ポールは、妻ジーンと共に積極的に世界中のクラブを訪問すると共に、国際大会や協議会にも出席し、充実したロータリー・ライフを取り戻します。
1928年、妻を伴って、五年間の愚行以来初めてのヨーロッパ訪問の旅に出ます。各地のクラブ例会やIMに出席して、ロータリーの創始者としての演説を行いましたが、その何れもが参加者の心に深い感銘を与えるものでした。連日にわたる会合というハード・スケジュールをこなした代償に、ポールが得たものは、ヨーロッパにおけるロータリー運動が、彼が想像していた以上に発展していたという喜びでした。
1928年の旅はハリスにとって多くの収穫のある旅でした。彼が危惧していたように、自分の名声によって他の人々の運動に対する貢献が減るどころか、逆にロータリーとその運動を、国際運動にまで発展するよう尽くしたあらゆる偉大なパイオニア連の地位が、それに伴って高められたことが、良く分かったからです。
それは自分が崇拝される教祖にされてしまうのではないか、と案じたからである。彼は同じ理由で、国際大会からも遠ざかっていたが、その恐れはもう消えていた。ロータリーはその真価によって確立され、常にハリスに対する尊敬と賛嘆はあっても、人物の方が運動よりも大事に見えるという危険はもうないことに彼は気づいていた。
[The First Rotarian…James Walsh--一是恒正 訳]
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ロータリーの危機
2007/1/29
ロータリーの歴史を顧みれば、深刻な危機が何回となくロータリーを襲い、それを見事に乗り越えていった歴史的事実があります。
最初の危機は1907年から1910年にかけて起こった「親睦か奉仕か」を巡る論争です。
原始ロータリーは、会員相互の親睦と事業の発展を願ったエゴイズムに満ちた出発であり、そこに社会に対する奉仕という概念が持ち込まれたことによって混乱が起こります。
それを打開する手段として、ロータリークラブ連合会が設立され、奉仕理念や拡大といったクラブの親睦を阻害する可能性のある事項を、ここで扱うことによって、最初の危機を脱することができました。
第二の危機は1923年の「奉仕活動の実践」を巡る論争です。ロータリーの活動の主流は、職業奉仕の理念に基づく活動であると主張する一派と、世の中に不幸な人がいる限りそれを救済するのが先決であるという社会奉仕活動に重点を置く一派との論争です。これは、I serve か We serve か、精神的活動か金銭的活動かにまで発展して、まさにこれもロータリー分裂の危機を孕んだ論争になりました。
これは、決議23-34によって、職業奉仕理念をロータリーの哲学におくことを前提としながら、一定の枠をおきながらも団体的、金銭的奉仕活動を認めるということで回避したわけです。
そして、第三の危機は、1929年から第二次世界大戦にかけて起こった、ロータリー対する逆風です。
1929年10月、ウオール街の株価暴落に端を発した世界大恐慌は悪化の一途をたどります。
それに追い討ちを掛けるように、1930年、ロータリーの奉仕理念の提唱者であったフレデリック・シェルドンが、突如ロータリーを去ります。1929年のダラス国際大会で、彼のモットーHe profits most who service bestを廃止しようという決議29-7が、RIBIから提案され、これを支持するクラブがアメリカからもかなり出たことや、決議23-34で制限がかけられたはずの奉仕活動の実践が、「身体障害児童の救済事業」として、同大会で決議されたことが原因とだという人もいますが、真偽のほどは定かではありません。
シェルドンという偉大なる精神的な基盤を失ったロータリーは、経済不況も加わって、急速にその勢力を殺がれていきます。
1932年12月のシカゴ・クラブの統計によれば、会員数670名のうち、半期60%の出席義務を満たさなかった会員は213名に上っており、クラブ管理そのものが破綻していたことが窺えます。
この状況に危機感を抱いたシカゴ・クラブ会長ジョージ・ハーガーは、1933年、シカゴ大学社会科学調査委員会に対して、シカゴ・クラブの徹底的な分析を依頼します。同委員会は、アンケートや提供された資料を基にして、翌34年に報告書「ROTARY ?」を出版しました。しかし、その内容があまりにもロータリー運動に批判的であったため、ポール・ハリスは、ほぽ完成の域にあった彼の著作「This Rotarian age」の発行を遅らせて、その内容を書き直したという逸話が残っています。
1929年から始まった世界大恐慌は悪化の一途をたどり、1932年に共和党のフーバー大統領(アーカンサス州ブルッフ・ロータリークラブ会員)に代わって、民主党のルーズベルトが政権を取りました。
1933年3月に発足したルーズベルト内閣は、直ちにニュー・デイール政策を打ち出して、金本位性の廃止、TVA開発などの公共事業の創出、国家産業復興法に基づく企業活動と労使関係を規制する政策を実施しました。ロータリアンを中心とする実業界と対立を深めながらも、一応経済危機を回避したかのように見えたニュー・デイール政策も、結局は功を奏せず、1937年の夏には「恐慌の中の恐慌」と呼ばれるほどの危機的状況を迎えます。そこでアメリカ政府が選択した道は、当時、緊張が高まりつつあった国際情勢を利用した軍事産業の積極的な育成であり、アメリカ経済は戦時体制の下で、やっと不況から抜け出すことに成功するのです。
さて、この未曾有の世界大恐慌の時期に、ロータリアンがなしとげた大きな業績の一つに、四つのテストの制定があります。
1931年、包装済食品戸別訪問販売の職業分類でシカゴ・クラブの会員であったハーバート・テーラーHerbert Taylor は、不況のあおりを受けて、莫大な借金を抱え倒産の危機に瀕していたクラブ・アルミニウム社の経営を引き受けることになりました。もしも、会社の再建に失敗すれば、250人の従業員が仕事を失うことになります。
彼はこの状況から脱出して、会社を再建するためには、道徳的、倫理的な指標がどうしても必要だと考えました。従業員が正しい考え方を持って正しい行動をすれば、会社全体の信用が高まるに違いありません。社員全体が簡単に憶えられて、自分を取り巻く全ての人たちに対して、考えたり、言ったり、行動したりするときに応用できる、道徳的な指標が必要であることに気づいたのです。
社長室の机の前で頭をかかえながら、思い浮かんだ24語の言葉を書き留めたのがこの四つのテストです。
四つのテスト
言行はこれに照らしてから
- 真実かどうか?
- みんなに公平か?
- 好意と友情を深めるか?
- みんなのためになるかどうか?
高い道徳的水準に基づいた真摯な会社経営は、消費者の信用につながって、クラブ・アルミニウム社は売上を伸ばし、5年後にはその借金は利子と共に完済し、15年後には株主に多額の配当をするまでに業績を伸ばしました。
シカゴ・クラブが四つのテストの存在を知ったのは、1939年にハーバート・テーラーが商工会議所の会合でこの話を披露したのを、たまたまゲストとして参加した他の会員が聞いたことに始まります。ハーバート・テーラーは1939-40年にクラブの会長、1954-55年に国際ロータリーの会長を務め、その際この四つのテストの版権をRIに寄付し、今日に至っています。
四つのテストは各国語に訳されて、ロータリー・ライフはもちろんのこと、社会的、政治的な問題や、人間の生活に影響を与えるすべての人間関係に驚くべき成果を与えつつ、適用されているのです。
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四大奉仕採用
2007/1/22
1927年、ベルギーのオステンド大会においてロータリーの組織管理の合理化が行われ、実践上または管理上の利便から抜本的に再編成されて、現在の四大奉仕に基づいた委員会構成に変更されました。すなわち、理事会の下にAims and objects Committee を置き、その下にクラブ奉仕、職業奉仕、社会奉仕、国際奉仕委員会を置き、理事をそれぞれの委員長に充てるというものであって、現在の委員会構成の原形ともなるものです。
それまでのロータリーの考え方は、ロータリー運動の実体をクラブ内の活動とクラブ外の活動に対比させる考え方でした。
クラブ内における活動とは、例会における発想の交換によって自己改善を計り、奉仕の心を育んでいくことであり、一人一業種で選ばれた会員が毎週開かれる例会に集って、お互いが師となって奉仕の心を学んでいくことを通じて、ロータリーが説く親睦が生まれてくると考えました。
例会を通じて学んだ奉仕の心はクラブ外で個々のロータリアンによって、奉仕活動として実践されなければなりません。従来は、クラブ外の社会即ち、家庭、職場、地域社会、国際社会を総称してCommunityと表現していましたが、四大奉仕の採用によって、職業奉仕、社会奉仕、国際奉仕、クラブ奉仕に分類されることになりました。従って、1923年に決められた決議23号で述べられているCommunityと、1927年以降のCommunityとはその範囲が大きく異なっていることに留意する必要があります。
従来の考え方の特徴は、ロータリーの理念を学ぶ場と実践をする場が明確に分けられており、更に、[奉仕の実践活動をする以前に、奉仕の心を学ぶ]ことが順序だてられていたことです。
理論と実践は車の両輪に譬えられ、何れを欠くことも許されませんが、理論の裏付けのない行動は単にエネルギーの無駄使いだけではなく、運動そのものを危険に陥れる恐れすらあります。ただし理論の探究が優先される余り、実践がなおざりになり、いわゆる行動の伴わない二重人格者をつくる恐れもあり、更に、ロータリークラブを組織体と見るとき、このやり方ではクラブの実体に添った管理が困難となる短所があります。
これに反して四大奉仕を採用することによって、ロータリーの奉仕活動の実体とクラブ管理運営の実体とがマッチして合理的になる一方で、ロータリーの理念を追求する場が特定されなくなったことから、とかく、原理が軽視されたり、否定され易いという短所が生まれてきます。
なお、この四大奉仕採用に先立って、イギリスとアイルランドのロ一タリークラブ群が、パイロット・プログラムとして五年間実施し、その結果、非常に大きな成果を得たので、正式採用に踏み切ったと言われています。その際に会員啓蒙用として使われた資料が、The meaning of Rotary (Vivian Carter著 ロータリー解析 田中毅訳)です。
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決議23-34 (3)
2006/12/25
[綱領に基づく諸活動に関するロータリーの方針]
国際ロータリー並びにロータリークラブの未来の指針として綱領に基づく諸活動に関するロータリーの方針を明確に表わすものとして改めて是認する件。
RI第14回国際大会が召集され、次のことがRIによって決定された。即ち、以下に掲げる諸原則は、ロータリークラブ及びロータリアンの指針として、また、綱領に基づく諸活動に関するロータリーの方針を明確に表わすものとして適切であり、また管理に役立つものであることを認め、これを採用するものである。
- ロータリーは、基本的には、一つの人生哲学であり、それは利己的な欲求と義務およびこれに伴う他人のために奉仕したいという感情とのあいだに常に存在する矛盾を和らげようとするものである。この哲学は奉仕-「超我の奉仕」-の哲学であり、「最もよく奉仕する者、最も多く報いられる」という実践理論の原則に基づくものである。
- 本来ロータリークラブは、秘密の誓約とか教理信案といったものは一切無く、それぞれのロータリアンが独自の方法で、事業人及び専門職業人の代表として、ロータリーの奉仕の哲学を受入れ、次の四つのことを実行することを目指している人々の集りである:先ず第一に、奉仕の理論が職業及び人生における成功と幸福の真の基礎であることをクラブとして学ぶこと;第二に、自分たちの間においても、また地域社会に対しても、その実際例をクラプで示すこと;第三に、各人が個人としてこの理論をそれぞれの職業及び目常生活において実践に移すこと;そして第四は、個人として、またクラブとしても大いにこの教えを説き、その実例を示すことによって、ロータリアンだけでなく、ロータリアン以外の人々のすべてが、理論的にも実践的にも、これを受入れるように励ますこと。
- 国際ロータリーは次の目的のために存在する団体である。
(1)ロータリーの奉仕の理想の擁護、育成および全世界への普及。
(2)ロータリークラブの設立、激励、援助および運営の管理。
(3)一種の情報交換所として、各クラブの問題を研究し、また強制でなく有益な助言を与えることによって各クラブの運営方法の標準化を図り、綱領に基づく諸活動についても、既に広く多くのクラブによってその価値が実証されており、国際ロータリーの定款に掲げられているロータリーの綱領の趣旨にかない、これを乱す恐れのない綱領に基づく諸活動のみによって、その標準化を図ること。
- 奉仕するものは行動しなければならない。従って、ロータリーとは単なる心構えのことを言うのではなく、また、ロータリーの哲学も単に主観的なものであってはならず、それを客観的な行動に表さなければならない。そして、ロータリアン個人もロータリークラブも、奉仕の理論を実践に移さなければならない。
- 各ロータリークラブはクラブとして関心があり、またその地域社会に適した綱領に基づく諸活動を自主的に選ぶことについては絶対的な権利をもっている。しかし、いかなるクラブも、ロータリ一の綱領を無視したり、ロータリークラブ結成の本来の目的を危うくすることのない綱領に基づく諸活動を行うべきである。そして国際ロータリーは、一般的な奉仕活動を研究し、標準化し推進し、これに関する有益な示唆を与えることはあっても、しかし、どんなクラブのいかなる綱領に基づく諸活動も、それを命じたり禁じたりすることは絶対にしてはならないものとする。
- 個々のロータリークラブの綱領に基づく諸活動の選択を律する規定は別に設けられていないが、これに関する指針として以下の準則が推奨されている。
- ロータリーの会員の数には限りがあるので、ロータリークラブは、市民全体の積極的な支持なくしては成功し得ないような広範囲の市民としてふさわしい奉仕括動は、ほかに地域社会全体のために発言し、行動する適切な市民団体などの存在しない土地の場合に限り、これを行うこととすべきであり、商工会議所のある土地では、ロータリークラブはその仕事の邪魔をしたり、横取りをしたりすることのないようにしなければならない。しかし、ロータリアンとしては、奉仕を誓い、その理念の教えを受けた個人とて、その土地の商工会議所の会員となって活躍すべきであり、またその土地の市民として、他の善良な市民と一緒に広くすべての市民としてふさわしい事業に関与し、その能力の許す限り、金銭や仕事のうえでその分を果たすべきである。
- 一般的に言って、ロータリークラブは、どんな立派な事業であっても、クラブがその遂行に対する責任の全部または一部を負う用意と意思のない限り、その後援をしてはならない。
- ロータリークラブが奉仕活動を選ぶ場合に、その奉仕を行うことによって宣伝しようとか名声を得ようとかを求めるのではなく、ただ奉仕する機会を求めるべきである。
- ロータリークラブは、仕事の重複を避けるようにする必要があり、総じて、他に機関があり、それによって既に立派に行われている事業に乗り出すようなことをしてはならない。
- ロータリークラブの奉仕活動は、なるべく現存の機関に協力する形で行うことが望ましいが、現存機関の設備や能力が目的の遂行に不十分である場合には、必要に応じ、新たに機関を設けることにしても差し支えない。ロータリークラブとしては、新たに重複した機関をつくるよりも、現存の機関を活用することのほうが望ましい。
- ロータリークラブはそのすべての活動において、宣伝者として優れた働きをし、多大の成功を収めている。ロータリークラブは地域社会に存在する問題を見つけ出すことはしても、それがその地城社会全体の責仕にかかわるものである場合には、単独でそれに手を下すようなことはしないで、他の人々にその解決の必要を悟らせる努力をし、地域社会全体にその責任を自覚させて、この仕事がロータリーだけの責任にならないで、本来その責任のある地域社会全体の仕事になるようにしている。また、ロ一タリーは、事業を始めたり、指導したりするが、一方、当然それに関心をもっていると考えられる他のすべての団体の協力を得るよう努力すべきであり、そして、当然ロータリークラブに帰すべき功績であっても、それに対する自分のほうの力を最小限度に評価して、そのすべてを協力者の手柄にするようにしなければならない。
- クラブがひと固まりとなって行動するだけで足りるような事業よりも、広くすべてのロータリアンが個々の力を動員するもののほうがロータリーの精神によりかなっているといえる。それは、ロータリークラブでの綱領に基づく諸活動は、ロータリークラブの会員に奉仕の訓練を施すために考えられた、いわば研究室の実験としてのみこれを見るべきであるからである。
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決議23-34 (2)
2006/12/18
[決議23-34]の原文には、[綱領に基づく諸活動に関するロータリーの方針]というサブ・タイトルがつけられ、ロータリー運動全般にわたって、奉仕の実践をめぐる、個人奉仕か団体奉仕かに対する長い間の論争に終止符を打つものであると同時に、RIとクラブとロータリアンの機能を明確化し、ロータリアンとクラブが行うロータリーの諸活動に関する根源的な指針となるものでもあります。
[決議23-34]は、当初のタイトル名からも判るように、単に、社会奉仕に関する指針として定められたものではなく、ロータリーの全ての活動に関する指針であったことに着目しなければなりません。
ロータリーの奉仕括動を、クラブ奉仕、職業奉仕、社会奉仕、国際奉仕に分ける目標設定計画が採用されたのは1927年であり、[決議23-34]が最初に採択された1923年には、末だ「社会奉仕」の分類は存在していませんでした。1926年のデンバー大会において、この決議のタイトルが[社会奉仕に関するロータリーの方針]と改正されて、始めて Community Service という言葉が登場しますが、当初使われた Community Service は「個人生活、職業生活、社会生活全般にわたって奉仕の理想を適用する」と定義付けられている通り、現在、我々が使っている、狭義の[社会奉仕]よりはるかに広い範囲を指しているものです。
ロータリーの奉仕概念をロータリー運動の実体に即して説明するとき理論と実践とに分けると理解しやすいと思います。理論はロータリー思想であると共にロータリー哲学であり、具体的にはロータリークラブという組織を介して学ぶ[奉仕の心の形成]であって、それは結果として親睦につながるものです。理論はロータリー運動の根幹をなす絶対的条件であり、これを欠くとロータリー運動は成立しません。
実践は行動であり、ロータリアン個人が行う[奉仕の実践]を意味するものであって、実践の伴わない理論は空虚なものとなります。
ロータリー運動とは、一人一業種で選ばれた良質な職業人であるロータリアンが毎週一回定例の会合に集い、例会を通じて[奉仕の心]を学び、その心を持ち帰って、ロータリアン個人の立場でそれぞれの家庭や職場や地域社会や国際社会で[奉仕の実践]に移すことです。
理論と実践は車の両輸のごとく、バランスをとって廻らなければなりません。
この考え方は本質的には正しいのですが、実践の主体がロータリアンであることは定義付けられていたとしても、ロータリークラブが行う[奉仕の実践]についての理論づけに欠けており、当時の論争の焦点は、将にその点にあったのです。
[決議23-34]の特徴は、ロータリー運動全般を対象として、ロータリー哲学を定義し、ロータリークラブと国際ロータリーの機能分担を明らかにすると共に、[奉仕の実践]に関するロータリアンとロータリークラブと国際ロータリーの原則を明確に区分し、確定したことです。
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決議23-34 (1)
2006/12/11
ロータリー運動を、一般奉仕概念を探究する精神的な場としてではなく、実際的な社会奉仕活動を実践する場として捉える傾向は、地方の比較的小規模のクラブに多く見られ、その代表的な例として、具体的な社会奉仕活動を提唱し、それを実践するためにロータリークラブに入った、オハイオ州エリリア・クラブのエドガー,アレン Edgar Anenがあげられます。ロータリークラブ入会の条件として、彼が進める身体障害児の総合的対策事業をクラブが積極的にバックアップすることを申し出て、ロータリアンとしての生活のすべてを身体障害児対策に捧げ、遂に、国際身体障害児協会を設立しその組織を全世界に広げました。彼は後に、「ダディ・アレン」と親しみと尊敬を込めて呼ばれています。
対社会的な奉仕が、ロータリー運動の中で市民権を得るようになった一方で、今度はその[奉仕]のあり方をめぐって再び熾烈な論争が起こりました。ロータリアンの心に[奉仕の心を形成]することがロータリー運動の本質だとする理論派と、[奉仕活動の実践]こそロータリアンの使命だとする実践派との論争です。
ロータリー運動を[奉仕の心の形成]として捉えた理論派は、ロータリークラブの使命は、ロータリアンに「奉仕の心」を形成させることであり、ロータリアン個人個人が、He profits most who serves best と Service above self の心を持って、自分の職場や地域社会の人々の幸せを考えながら、職業人としての生活を歩むことであると考えました。すなわち、クラブ例会で会得した高いモラルに基づく「奉仕の心」で事業を行い、その考えを業界全体に広げていくことが、全ての人々に幸せをもたらし、それが地域社会の人々ヘの奉仕につながることを確信していたのです。
これに対して、[奉仕活動の実践]に重きをおく実践派は、現実に身体障害者や貧困などの深刻な社会問題が山積し、これまでにロータリークラブが実施した社会奉仕活動が実効をあげていることを根拠に、理論派とことごとく対立しました。実践派から見れば、奉仕の機会を見出して、それを実践することこそロータリー運動の真髄であり、単に、奉仕の心を説き奉仕の提唱に止まる理論派の態度は、責任回避としか写らなかったのです。
[奉仕の心の形成]と[奉仕の実践]の論争は、個人奉仕と団体奉仕、さらに全銭的奉仕の是非にまで発展して、綱領から社会奉仕の項目を外せという極論まで飛び出すほどの、激しい対立が続きました。
エドガー.アレンとエリリア・クラブに代表されるような、多額の金銭的支出を伴うクラブによる団体奉仕を、ロータリーの社会奉仕活動として認めるか否かが議論の中心になりました。
ロータリーの思考体系には、その原則を崩せばロータリー運動を成立さし得ない必要案件と、ロータリアンやクラブの考え方や行動に対して、その立場と善意を尊重して、容認することができる充分条件があります。奉仕の実践は、将にこの充分条件の分野に入る事柄であり、従来から行われている色々な社会奉仕活動に対する考え方や行動を調和させることが、是非とも必要でした。相異なる二つの考え方を、ロータリーの寛答の精神の下で調和するために、当時の理事会は高等戦術ともいえる微妙な試みをしています。
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国際奉仕の概念導入(2)
2006/12/4
ロータリアンの職業は利益を得るための手段ではなく、その職業を通じて社会に奉仕するための天職であると、次のような例えを述べています。
「今、仮に全世界の靴屋の会合が開かれて、靴に関連する職業を持っている全世界の人が集まったと仮定します。
その人たちに、なぜ靴屋をしているのかと質間すれば、殆どの人は、儲けるためと答えるに違いありません。5%くらいの人は、自分の仕事が他の人のためになるから(職業を通じて他人に奉仕するため)と答えるかも知れません。
仮に、その場所に天変地異が起こって、集まった人たちが全員死んでしまったらどうなるでしょうか。当分の問は、何の影響もないかも知れませんが、やがて全世界の人たちは、靴を履くことができなくなってしまうことは確実です。そこで、初めて、5%の人たちが答えた、職業を通じて奉仕するという言葉の真意が理解できるのです。」
奉仕哲学は、原因によって結果が証明できる科学であるという前提から、「奉仕」と「自我」と「利益」の関係を明快に説明しています。
社会生活において我々が得るものは、同僚からの愛や尊敬(L:Love)を受け、白らの良心や白尊心(C:Conscience)を保ち、金銭すなわち物質的な安定(M:Money)があってこそ、人生の満足や幸福(H;Happmess)が得られます。(幸福のまた社会生活に於いて我々が与えるものは、良質なもの(Q1:Right Qualty)を、必要とするだけの量(Q2:Right Quantity)を、正しい状態(人問性とか事業の管理状態)(M:Mode of Conduct)で提供してこそ、満足感のある奉仕(S:Satisfactory Service)ができます。(奉仕の正三角形)
奉仕の原理を人間関係学から説き、その結論として、He profits most who serves best というロータリーの奉仕理念こそ、宇宙の摂埋にかなった、絶対的な法則であるという説明をしています。
なお、1913年のシェルドンの論文には、この発想はインド哲学より引用したものであると書かれています。
この大会で、フランク・コリンズのService not self に代わってService above self が新しいロータリー.スローガンとして採択されました。
この大会が始めてアメリカを離れて、スコットランドのエジンバラで開催されたことを記念して、「奉仕というロータリーの理想に結束した職業人の世界的友好による理解、善意および国際的平和の増進」という国際奉仕の考え方が発表され、それを綱領の中に加えるように提案されましたが、綱領改正そのものが否決されたため、翌年の、1922年ロスアンゼルス大会に持ち越されました。
初めて正式に国際奉仕の概念がロータリーの綱領第6案に加えられました。
この項目は、その後度重なる綱領改正にも変更削除されることなく現在に至っています。
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国際奉仕の概念導入(1)
2006/11/27
最初に国際奉仕に類する活動が行われたのは、1914年、第一次世界大戦の頃からといわれ、アメリカからヨーロッパに出兵したロータリアンの子弟を、イギリスのロータリアン家庭がホストしたり、アメリカ、イギリス、アイルランド、カナダのクラプによって、ヨーロッパ各地で避難民への物資補給や、傷病兵の慰問や、終戦で復員してくる軍人に対するボランティア活動などが行われました。
1917年、第26代大統領ルーズベルトは、アーチ・クランフ Arch Klumpf 連合会会長に次のようなメッセージを寄せています。
私は政治止の堅い約東や同盟を信じていない。むしろ、RIのような団体が持っている理念の方を信じる。国と国との利害があい反し、意見が食い違った時には、いかなる同盟や条約があっても、友好的な関係を保つことはできない。お互いの国民が理解と共感を持ってさえいれば、両国政府間の同盟など不必要である。RIを組織するような人々の交流は、確実に相互理解を深めるに違いない。
この年、アーチ・クランフの提唱によって、国際理解と親善を目的としたロータリー財団の前身であるか〔アーチ・クランフ基金〕が創設されましたが、基全の設立が余りにも唐突であったことと、その趣旨が埋解されなかったために思ったように募金が集まらず、本格的なロータリー財団の活動は、ポール・ハリス没後の1937年まで持ち越されます。
初期のロータリー運動が著しい勢いで発展し、またたく問に全世界に広まっていった背景には、全ての会員を平等に扱い、会員に差別感を抱かさなかったことがあげられます。会員の社会上の地位は勿論のこと、民族や国籍や宗教の差を超越して、ロータリアン相互の深い親睦と友情の関係を作り上げることに重点がおかれました。
宗教戦争の経験も少なく、単一民族、単一国家を自認している日本では浮かんでこない発想かも知れませんが、多くの移民を抱え、人種と宗教の坩堝(るつぼ)であるアメリカや、多種多様な民族が入り交って多彩な生活様式を営んでいるヨーロッパにおいて、仮に、政治や宗教をロータリーの中に持ち込んだり、その問題を議論したとしたら、ロータリ一で育んだ友情もたちどころに消え去ったことでしょう。
宗教と政治に関する問題は、友情を損ねる恐れがあるから議論しないという伝統は、今に至るまで引き継がれ、更に、政治や宗教以外の問題でも、口角泡を飛ばして議論し、事の黒白をつけること自体が親睦を阻害するという理由から、それを避けようという考え方が根強く残っています。
1919年、第一次世界大戦終了と共に、新しいクラブが世界中で誕生し、ロータリーの拡大は急ピッチで進んでいきました。
1921年、エジンバラ大会でフレデリック・シェルドンが発表した[ロータリー哲学]と題する講演は、ロータリーの理念を哲学的に解釈したものであり、ヨーロッパのロータリアンに大きな感銘を与えました。
この論文は非常に長文であるために、次回にその一部をご紹介します。
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道徳律の制定(2)
2006/11/17
綱領が改正されたにもかかわらず、ロータリアンによる互恵主義が一向に改善されないことに対する痛烈な批判は、ドゥルース大会に参加した良識あるロータリアンの考え方と一致し、これを具体化するために、ロータリアン個人個人がどのようにして指針を実行に移すべきかという指針を作る目的で、特別な道徳律を作って、1年後にヒューストンで開催される次の大会に提出するために準備することが、この大会で決定されました。
1914年のヒューストン大会において、この道徳律をすべてのロータリアンに送って、研究することが決まり、更に1年後のサンフランシスコ大会で、ほぼ原文のまま採択されて、公式な道徳律The Code of Ethicsとなりました。その後40年間にわたって、この道徳律は、ロータリアンの道しるべとして、多くの言語に翻訳されて、世界中のロータリアンの事業所の壁に掛けられることになります。
<職業人のためのロータリー道徳律>
1915年7月19-23日、サンフランシスコにおける第6回国際ロータリークラブ連合会年次大会によって採用された。
この職業倫理基準は、我々の共通な人間性に基づく思いやりを心に留めるものである。職業上の取引や野望や諸関係は、常に社会の一員として自分が果たす最高の義務を考慮すべきである。職業生活のあらゆる場面において、また、自分が直面するすべての責任において、先ず最初に考えなくてはならないことは、その双方を終えたときに始めて果たされる責任と義務を満たすことである。人間の理念と業績の水準をそれに気づいたときよりも、少しでも高めなければならないし、このことを考えることこそ、ロータリアンとしての私の義務である。
倫 理 基 準
第1条
自分の職業は価値あるものであり、社会に奉仕する絶好の機会を与えられたものと考えること。
第2条
自己改善を図り、実力を培い、奉仕を広げること。それによって、最もよく奉仕する者、最も多く報いられる」というロータリーの基本原則を実証すること。
第3条
自分は企業経営者であるが故、成功したいという大志を抱いていることを自覚すること。しかし、自分は道徳を重んじる人間であり、最高の正義と道徳に基づかない成功は、まったく望まないことを自覚すること。
第4条
自分の商品、自分のサービス、自分のアイディアを金銭と交換することは、すべての関係者がその交換によって利益を受ける場合に限って、合法的かつ道徳的であると考えること。
第5条
自分が従事している職業の倫理基準を高めるために最善を尽くすこと。そして、自分の仕事のやり方が、賢明であり、利益をもたらすものであり、自分の実例に倣うことが幸福をもたらすことを、他の同業者に悟らせること。
第6条
自分の同業者よりも同等またはそれに優る完全なサービスをすることを心がけて、事業を行うこと。やり方に疑いがある場合は、負担や義務の厳密な範囲を越えて、サービスを付け加えること。
第7条
専門職種または企業経営者の最も大きい財産の一つこそ、友人であり、友情を通じて得られたものこそ、卓越した倫理にかなった正当なものであることを理解すること。
第8条
真の友人はお互いに何も要求するものではない。利益のために友人関係の信頼を濫用することは、ロータリーの精神に相容れず、道徳律を冒涜するものであると考えること。
第9条
社会秩序の上で、他の人たちが絶対に否定するような機会を不正に利用することによって、非合法的または非道徳的な個人的成功を確保することを考えてはならない。物質的成功を達成するために、他の人たちが道徳的に疑わしいという理由から採らないような、有利な機会を利用しないこと。
第10条
私は人間社会の他のすべての人以上に、同僚であるロータリアンに義務を負うべきではない。ロータリーの神髄は競争ではなくて協力にあるからである。ロータ リーのような機関は、決して狭い視野を持ってはならず、人権はロータリークラブのみに限定されるものではなく、人類そのものとして深く広く存在するものであることを、ロータリアンは断言する。さらに、ロータリーは、これらの高い目標に向かって、すべての人やすべての組織を教育するために、存在するのである。
第11条
最後に、「すべて人にせられんと思うことは、他人にもその通りにせよ」という黄金律の普遍性を信じ、我々が、すべての人にこの地球上の天然資源を機会均等 に分け与えられた時に、社会が最もよく保たれることを主張するものである。
[The Rotary Code of Ethics 田中毅訳]
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道徳律の制定(1)
2006/11/13
アメリカに集まってきた移民の大部分は、貧しい階層の人たちであり、思想的な自由に憧れると同時に、金持ちになること、成功することがアメリカに来た目的でもありました。資本を蓄積した者のみが成功者としての評価を受ける徹底した資本主義は、幾多のアメリカン・ドリームを生み出すと同時に、商道徳と職業倫理の低下を招く悪弊をはびこらすことにもなりました。
資本主義は経済形態であると同時に政治形態でもあります。極端な資本主義経済下では、国家の機能は、通貨発行、郵政事業、軍事などの極めて小さい共通部分のみに限定され、衣食住は当然のこととして、医療、教育、自衛に至るまで、生活の全ては自分が獲得した資本の範囲で、自分自身で責任を持つことが原則となります。現実には純粋な資本主義は存在しないとしても、当時のアメリカが目指していたものはそれに近いものであったことは、現在に引き継がれているアメ リカの社会制度や伝統からも、容易に想像がつくでしょう。
20世紀初頭のアメリカは、資本主義の長所と短所の両極端が表れた年代とも言われています。如何にして金を儲けるかが、人生最大の命題であり、たとえ汚い手段であったとしても、金を儲けたものが勝利者ともてはやされ、後味が悪ければ、贖罪の意を込めて慈善の金でも寄付すれば、世間の人々もその出処を追及することはありませんでした。それぞれの人が一匹狼であり、生きていくための弱肉強食の世界だったのです。利潤の獲得に狂奔するあまり、一攫千金を狙う悪徳商法や、詐欺まがいの商法がまかり通り、大部分の広告や宣伝は誇大か虚偽に近く、商道徳や職業倫理はまさに地に堕ちていました。こんなバック・グラウンドの中から、事業を成功させ、永続的に発展させる指針として、ロータリーのモットーを発表したことは、衝撃的なことであったに違いないし、そのような素地であったからこそ、ロータリー哲学を生み出す必然性があったとも言えるのでしょう。
我々が日本人として潜在的に抱いている儒教や仏教に基づいた奉仕の心も、キリスト教の教えに基づく奉仕の心も、ロータリーが説く奉仕概念とは似て否なる部分も多くあり、これを混同したり安易に解釈する処から、職業奉仕に関する誤解や、profitsを敢えて精神的なものに置き換える過ちが生まれてくるのです。
何れにせよ、親睦を出発点として歩みだしたロータリー運動は、その進化過程で会員の事業上の利益の向上を目的に加え、1911年のロータリー・モットーの採用によって、その目的を奉仕に一大転換することになります。
ロータリーの拡大は順調に進み、1910年11月にカナダのウィニペッグにクラブが設立されたのを皮切りに、イングランド、アイルランド、スコットランドと続々と海外にも設立されました。これを承けて、1912年、全米ロータリークラブ連合会は国際ロータリークラブ連合会The International Association of Rotary Clubsと名称変更され、同時に定款も改正されました。
ポールがロータリー運動の将来像として描いた、増強・拡大・奉仕は何れも大きな成果を収め、あれほどまで頑迷に彼の方針を非難し続けたシカゴ・クラブの面面も、世界的規模にまで発展した現実を認めざるを得ませんでした。
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フランクリン・コリンズ
2006/11/6
ミネアポリス大会のエクスカーションとして開催された、コロンビア川をさかのぼる船旅の中で、多くのロータリアンが思い思いに即興演説をしました。その一つとして、1910年に創立されたミネアポリス・ロータリークラブ会長のベンジャミン・フランクリン・コリンズB. Frank Collinsが語った言葉が「Service, not self」でした。
---前略---
従って、この手のインパクトのあるスローガンは、販売の分野で近代的であると評価されるためには、どうしても不可欠なものであった。そこでロータリーは、そのモットーをロータリーの内外に広く売り込むことを決意した。
誰が最初に、紙に書かれたその短い標語をいじくり回そうとしたかは分からない。たぶん、それは委員会ではなく、グループだったであろう。自分で売り込んだ即席演説だったのかも知れない。
「Service, not self」
そう、何れにせよ、自己の存在を考えることが、まったく悪いわけではない。例えば、人間は自尊心を持つべきだし、自分自身を守らなければならない。もし自分自身が零落すれば、奉仕することなどできるわけはない。従って、「Not Self」が、何を意味しているかを理解することは、まったく難解である。自分自身を二の次にしておくのは良いとしても、それを完全に否定するのはどうかと思われた。
「よし、それなら "Service Above Self" にしたらどうだろうか?」
誰かが意気揚々と、適切な提案をした。
「それは良いね!」
別の人が叫んだ。たぶんそれは、販売の専門家アーサー・シェルドンの興奮した声であったに違いない。
「それはよい方針であり、すべてを言い尽くしている。」
明らかに、彼の発言は正しく、その提案は満場一致をもって採択された。そこで、数カ月後には、“Service Above Self”は多くのロータリーのレターヘッドやパンフレットや演説原稿や宣言文に用いられはじめた。更にしばしば、モットーは “He Profits Most Who Serves Best”と“Service Above Self”とが組み合わされて印刷された。
あらゆる様式で、モットーは満足感を持って、長く使われることになった。それは、単にシカゴだけではなく、約40年間にもわたって完全な公式声明とは言えないにせよ、すべてのロータリーの会員に親しまれたのである!1950年のデトロイト大会でこの二つの文言がロータリー・モットーとして正式に認められるまでは、このモットーは個人の自由裁量で文献やあらゆる場所で頻繁に使われていた。
[Golden Strand ---Oren Arnold--- 田中毅訳]
Service above self は[超我の奉仕][自己研鑚の奉仕][奉仕第一、自己第二]などと訳されていますが、above は単に上を表す前置詞としてではなく、Self と Service を対等に結び付ける接続詞と考える方が正しいと思います。
その考え方で解釈すれば、自己の主体性と奉仕の心の主体性を共に認めるならば、自己の存在が奉仕を超えるものでもなく、奉仕が自己の存在を超えるものでもないことになります。すなわち、Self とServiceには序列をつけるべきではなく、両者の価値は同列であり、混然一体なものと考えることが必要なのではないでしょうか。
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ロータリーの義務
2007/6/18
1911年8月21日から23日まで、オレゴン州ポートランド商業クラブ会議場において第2回全米ロータリークラブ連合会の年次総会が開催されました。
大会議事録によると、その最終日に欠席役員及び会員から寄せられた多くのメッセージが読み上げられ、その中に、企業経営委員会からの報告書の代わりに、アーサー・フレデリック・シェルドン委員長が用意した演説原稿が同封されており、それをチェスレー・ペリー事務総長が代読され、その内容が、参加者に極めて強い印象を与えたため、大会議事録として配布された報告書の中に演説の全文が印刷された上、He profits most who serves bestが大会宣言の結語として採択されるという結果に至りました。
シェルドンの演説は極めて哲学的な長文のスピーチですので、その一部のみをご紹介します。
「私の宣言」
私は、以下のことを信じている。
我々は科学的な時代に生きている。世のために努力を重ねるすべての職業は、急速に、科学を基本とするものに変わりつつある。
我々は、適合する者のみが生き延びられる時代に生きている。10年前よりも、今日の方が更に適合を要求されることを意味し、今日よりも、10年後の方が更に適合を要求されることを意味するのである。
我々は商業の時代に生きており、商業や事業は科学である。
科学とは、真実についての適切な見解、把握、比較、記録に基づいた常識を簡潔に分類することである。
専門職務とは、科学を実践することである。
経営学は、「最もよく奉仕する者、最も多く報いられるHe profits most who serves best」に基づくサービス学である。
実業に取り組み、実業を築いていくことは、これに関連した知識を体系づけることによって科学的なものに変えていき、専門職のように実業を高揚させることである。
いかなる団体の成功も、サービスに従事した人々の成功の集積である。
事業主よりも大きな事業所はなく、その事業所の全員と関係を持っているのが事業主である。
顧客は事業所のことを熟知している。顧客の獲得と維持の双方は、事業主の力量如何にかかっている。
広い意味で、すべての人はセールスマンである。それぞれの人は、それがサービスか商品かにかかわらず、売るべきもの持っている。
商売上における人生の成功は、末永く利益をもたらす顧客を確保する技術を持って、事業を営むことによって決まる。
血の通った事業を築いていくのは、利益を得るために、品物を買うように人々を説得する原動力、すなわち販売術である。血の通った販売術の源となる心こそサービスであり、最終的に、買手と売手の双方に利益と満足を与える原動力である。
--中略?
広い意味における人生の成功は、幸運とか機会というものではなく、心理的、道徳的、物質的な自然の法則によって支配されている。
これらの自然の法則のすべてを調和させる活動こそ、最高の成功を意味する。自然の法則の一部を犯すことは、単なる部分的な成功を意味し、全てを犯すことは、失敗を意味する。
これらの自然の法則を教えることの方が、教育の名において現在教えられている多くの事柄を学生の頭に詰め込むより、よっぽど有益であることが判る。
-中略?
宇宙を認識する道は、進取の気性を開発することによって作り出される。
サービスをしたいという願望は、利己主義や自らを意識するという段階から、宇宙を認識するという英知に向かう段階に至る人間のたどる道として発展したものである。言いかえれば、我々が利他の心を持って他人の成功を願うことは、自らが成功への道を歩んでいることである。
--後略?
[第2回全米ロータリークラブ連合会年次大会議事録 田中毅訳]
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He profits most who serves his fellows best (2)
2006/10/23
彼は、どんな手段を講じようとも、富を得たものが成功者としてもてはやされた19世紀の利己的な経営手法を批判すると共に、単に自分だけが儲けようという商売から脱して、商売とは他人に対してサービスすることであることを力説しました。20世紀の実業人を成功に導く方法は、利益を他人とシェアするという サービス学を遵守することであると説き、その理念を端的に表す言葉として、He profits most who serves his fellows best というモットーを発表したのです。
彼は、悪い商習慣がはびこり、出店と廃業がめまぐるしく繰り返される過酷な自由競争の中で、持続して繁栄し発展しているいくつかの企業に共通して見られる特徴を、サービスと名づけました。価格が安いことだけがサービスではなく、店主や従業員の顧客への態度や気配り、商品や業務に対する責任、顧客が感じる満足感と公平感、こういったもの全てがサービスであり、サービスこそが企業の永続的発展と成功を保証する唯一の方法であることに気づいたのです。
事業上得た利益は、決して自分一人で得た利益ではありません。従業員、取引先、下請け業者、顧客、同業者など、自分の事業と関係を持つすべての人々のおかげで得たことを感謝し、その利益を適正にシェアする心を持って事業を営めば、必ず最高の利益が得られることを自分の職場で実証し、その方法こそが正しいやり方であることを、地域全体の職業人に伝えていかなければなりません。
まず、ロータリアンの企業が職業奉仕理念に基づいた正しい事業経営をし、それによって事業が継続的発展をすることを実証すれば、必ずや他の同業者たちもその経営方法を見習うはずです。それが結果として、業界全体の職業倫理高揚につながるはずです。これが、He profits most who serves his fellows best の真意です。
なお、この最初のモットーに his fellows という言葉が加えられていたことは、非常に興味深いことです。現在のモットーが、全ての人々を奉仕の対象としているのに対して、その対象を his fellows と限定していることは、とりも直さず、当初は自分の事業に関連する人々だけを対象にしていたと考えられるからです
素晴らしい奉仕理念の提唱であったにもかかわらず、このスピーチの内容を理解できた人はほとんどいなく、従って反響はゼロに等しいものでした。
当時の人たちが、「奉仕・・サービス」という言葉から思い浮かべることは、「神に対する奉仕・・・教会」「国に対する奉仕・・・兵役」「主人に対する奉仕・・・召使」といった程度であって、経営と奉仕とを結びつけることに思いを馳せる人は誰もいなかったからです。
この時点から、この新しい奉仕理念を全国のロータリアンに伝える作業が、シェルドンやシアトル・クラブのジェームス・ピンカム James Pinkham たちによって積極的に進められ、やがて、第二回全米ロータリークラブ連合会の年次大会を迎えます。
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He profits most who serves his fellows best (1)
2006/10/16
1910年8月15日から17日まで、シカゴのコングレス・ホテルで、全米ロータリークラブ連合会The National Association of Rotary Clubsの第一回年次大会が開催されました。
シェルドンやシアトルおよびミネアポリスのロータリアンたちの働きかけによって、物質的相互扶助の慣習から脱却して、職業倫理を高めるための最初の公式文書として、新たなロータリーの綱領が採択されました。
<ロータリーの綱領>
- アメリカ全土に加盟ロータリークラブを結成することによって、ロータリーの原則を拡大発展させること
- アメリカ全土の加盟ロータリークラブの業務と原則を統一すること
- 市民としての誇りと忠誠心を喚起しかつこれを奨励すること
- 進歩的で尊敬すべき商取引の方法を推進すること
- 加盟ロータリークラブの個々の会員の事業上の利益を増大すること
[1910年 シカゴ大会]
この綱領の内容は、アメリカ国内におけるクラブ連合体としての位置付けを明記する以外は、シカゴ・クラブの定款の域を出ないものでしたが、原案にあった「会員相互の取引関係を向上させること」が「進歩的で尊敬すべき商取引の方法を推進すること」に修正されたことは、物質的互恵からの脱却を意図するものとして意義深いことです。
大会の最終日にゴールド・ルームで開かれた晩餐会の席上、連合会の企業経営委員会Business Method Committeeの初代委員長に就任したシェルドンは、兼ねてから彼が考えていた奉仕哲学に関するスピーチを行い、He profits most who serves his fellows best という言葉を始めて披露しました。
19世紀における実利主義の特筆すべき点は競争である。人間は長い旅路を漂いながら進化し成長していくものだが、特に今世紀も間近に控えた19世紀の4分の3を迎えた頃には、毎日毎日が食うか食われるかという人間の本能をむきだしにした状態が最高潮に達した。
平均的な実業家の座右の銘は、自分がしようとすることを他の人がしないうちに、最初にすることであり、他人のために善行を行うのではなく、悪行を行う風潮であった。もちろん、例外があったとしても、それが鉄則であった。
商売の原則は、「買手の自己責任」として、買手が用心することであった。
20世紀における人類は、あらゆる面で知性の円熟期に近づきつつある。人類は、無知という精神的な夜の帳を抜けて、知識の薄明を迎えようとしている。印刷物や出版された文献や学校教育を通じて、人類は、昇る太陽の知識の光を享受し、その光は世界中を照らしている。今や我々は、知識と知恵が満ち溢れる時代に近づきつつあるのである。
知恵の光がさし始めた、この20世紀の黎明の中に立っていることは、素晴らしいことである。20世紀の実利主義の特徴は協力することであり、知恵の光に照らされた人間は、他人に利益をもたらすことこそが正しい経営学だということを理解し、販売学が人間に対するサービス学であることを理解し、同僚に対して 最も奉仕した者が最も報われるHe profits most who serves his fellows bestことを理解するのである。
[第1回全米ロータリークラブ連合会年次大会議事録 田中毅訳]
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アーサー・フレデリック・シェルドン
2006/10/2
ロータリーの歴史を語るとき、創立者であるポール・ハリス、組織の構築者であるチェスレー・ペリーと共に、ロータリー理念の提唱者であるアーサー・フレデリック・シェルドンArthur Frederick Sheldonの存在を忘れることはできません。
シェルドは1902年に、シカゴにビジネス・スクールを設立して、サービスの理念を中核にした販売学を教える道を選びます。後日、ロータリーの職業奉仕理念の中核となった「He profits most who serves best」に基づくサービス学の概念を、科学として捉え、それを体系的に教えることが、シェルドン・ビジネス・スクールの方針だったのです。
その証拠に、1910年の全米ロータリークラブ連合会創立以降、「He profits most who serves best」という奉仕理念を、全国のロータリー・クラブに広める活動の中心になったシアトル・クラブのジェームス・ピンカムやシューシティ・クラブのパーキンスやジョン・ナトソンたちは、シェルドン・ビジネス・スクールの卒業生でした。
1906年の後半、シカゴ・クラブは大きな転機を迎えます。
1905年の創立以来、会員同士の親睦と物質的相互扶助に重きを置いてきたシカゴ・クラブに、対外的な奉仕をすべきだという意思を持って入会してきたドナルド・カーターの考え方に同調したポール・ハリスは、1906年12月に定款を改正して社会奉仕に関する項目を追加し、更に1907年2月、会長就任と共に、運営方針を抜本的に変更し、会員増強、拡大、社会奉仕の実践を提唱します。しかし、これまで会員に大きな利益をもたらしてきた物質的相互扶助と、突然提唱された社会奉仕の概念との乖離は大きく、これに反発する会員との間で争いが起きます。
そんな状態の中で、シェルドンはハリー・ラグルスの推薦で、1908年1月にチェスレー・ペリーと共にシカゴ・クラブに入会します。ハリー・ラグルスが互恵・親睦派の旗頭であったことから、彼ら二人も、ラグルスが自派の勢力拡大を計って入会させたことは明らかですが、その後この二人が 共に、ハリー・ラグルスと袂を分かって、ポール・ハリスの片腕となり、シェルドンは奉仕理念の提唱者として、ペリーはロータリー組織の建設者として協力したことは皮肉なことです。
理論構築や理論提唱があまり得意でなかったポール・ハリスは、その作業を全てシェルドンに任せたのではないかと思われます。シェルドンの奉仕理念は既に完成の域に達していましたが、彼はビジネス・スクールを通じてその理念を広げるよりも、ロータリーという大きな組織を通じて広げることに魅力を感じたのかも 知れません。ロータリーはロータリーで、シェルドンの新しい奉仕理念をそっくりそのまま導入してロータリーの奉仕理念とし、お互い持ちつ持ちたれつの関係で、利用しあったのではないかと思います。
毎回の例会毎に、ポール・ハリスとシェルドンによって繰り返される奉仕哲学と拡大の必要性を説くの議論に、大多数を占める互恵・親睦派の会員たちは辟易しました。その白熱した議論の雰囲気を和らげるためにハリー・ラグルスが始めたのが「唱歌」であったことは、余りにも有名な話です。
[This Rotarian Age ---Paul Harris--- 田中毅訳]
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ロータリークラブ連合会の設立
2006/09/25
四面楚歌の中で、ポールはシカゴ・クラブの会員であり、大学時代の友人でもあるマニュエル・ムノズの紹介でサンフランシスコで弁護士を開業しているホーマー・ウッドに、西部における拡大を要請し、ウッドは精力的に拡大作業に取り組み、1908年11月にサンフランシスコに、更に、1909年にはオークランド、シアトル、ロスアンゼルスに新クラブを設立しました。
途中からハリスの拡大の方針に賛同して、彼の活動を全面的に支えたチェスレー・ペリーの働きも加わって、その後ニューヨーク、ボストン、ポートランド、ミネアポリス、セントポールに新クラブが誕生し、拡大の作業は順調に進んでいきました。
ロータリーの創始者ポールが描いたロータリーの将来像は、シカゴ・クラブの現実とは大きく掛け離れた次元にまで飛躍していきました。その結果、彼は親睦と物質的互恵に満足しきって、何とかその域に留まろうとするシカゴ・クラブの大部分の会員の意識改革を気長に待つことを断念して、会員増強、積極的な拡大、奉仕概念の確立という、彼の革命的な試みを支持する仲間と共に、新しい組織を作る途を選ばざるを得なくなりました。
この騒動の結果、1910年に結成されたのが、当時16クラブまで拡大されていたロータリークラブの連合体である全米ロータリークラブ連合会であり、これを境にして、奉仕・拡大派の活動の場はシカゴ・クラブを離れて全米ロータリークラブ連合会へ移っていきます。これ以降、ロータリー思想史の中におけるシカゴ・クラブの存在は徐々に希薄となり、全米ロータリークラブ連合会や、その後身である国際ロータリークラブ連合会やRIを中心に、ロータリー思想の追究が行われることになっていきます。
拡大も奉仕理念の追求も大切なことではありますが、その議論が白熱化した結果、シカゴ・クラブの親睦に破綻をきたしたこともまた事実でした。ロータリークラブが社交クラブとして生まれた以上、どんな理由があったとしても親睦を阻害する因子は排除しなければなりません。この苦い経験を経て、親睦の場としてのロータリークラブと、奉仕理念を追求し積極的に拡大を図る場としての連合会を分離することによって、無用の混乱を起こさないという配慮から連合会を設立する構想が生まれたのです。
ちなみに、連合会の初代会長にはポール・ハリスが就任し、事務総長(幹事)はチェスレー・ペリー Chesley Perry が務めました。チェスは、1942年までの32年間その職に留まり、退任後の1947年、シカゴ・クラブ会長に就任することで、古巣であるシカゴ・クラブに華を持たせました。
[This Rotarian Age ---Paul Harris--- 田中毅訳]
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奉仕理念の導入(2)
2006/09/11
1907年、ポールは会長に就任すると、兼ねてからの考えを実行に移して、活動方針を大きく転換し、会員増強と他都市での新クラブ設立と地域社会への奉仕活動を提案しました。
第一の方針である会員増強は、入会希望者が殺到している現状から比較的容易に達成できる目標でしたが、後の二つの方針は思ったほど簡単に進みませんでした。
ポールは、たまたま出席した商工会の集まりで、ループ地区(シカゴ中心部)の通行人が公衆便所がないために不便な思いをしているという話を聞きこみ、これを奉仕活動を実践する絶好の機会だと捉えました。
シカゴ・クラブは、早速、グレート・ノーザン・ホテルに25の市民団体の代表を集め、連合公衆便所建設委員会を設立して、行政に働きかけますが、既に施設内にトイレを持っていることを強く主張する、シカゴ醸造組合と百貨店組合の激しい妨害を受けます。
当時のループ地区で顧客用にトイレを供用していたのは、百貨店かバー位しかなく、トイレを借りる必要に迫られた通行人は、女性は化粧品を買うことと引き換えに百貨店に入り、男性はビールの一杯も飲みにバーの扉をくぐらなければなりませんでした。もし、無料のトイレができれば、これらの店の収入に影響を与えることは、誰の目にも明らかでした。交渉は長引き、土地を掘り起こすまでに2年の歳月が掛かってしまいましたが、最終的には、建設用地と20,000ド ルの補助金を市当局から受け取ることに成功して、1909年に市役所と公立図書館の横に二つの公衆便所が出来あがったのです。
公衆便所設置は市民のニーズに従って市民団体を組織し、行政当局に働きかけて、実施にこぎつけたものであり、俗にいわれるような単に金銭を拠出した団体奉仕活動ではなかったことに注目しなければなりません。
地域社会に対する奉仕の一環として、シカゴ市や民間団体に呼びかけて公衆便所設置運動を行い、見事にこれを完成させたものの、この事業がその後、大きな論争を引き起こす原因となります。親睦一辺倒だったロータリーが初めて行った奉仕活動であり、これ以後数年の間、親睦と奉仕を巡ってシカゴ・クラブは大揺れに揺れることになります。
当時のシカゴ・クラブの会員数は150名前後でしたが、新しい会員の大部分は親睦と互恵を目的に入会したものであり、そこに始めて奉仕という概念が導入されたのですから、混乱が起こるのは無理もありません。
ポール・ハリスの方針に積極的に賛同したのは、ドナルド・カーターや、1908年に入会したアーサー・フレデリック・シェルドンなどの小数派であり、クラブ内で圧倒的多数を占めていた[親睦・互恵派]との間でくりひろげられた論争の激しさは、想像を絶するものだったらしく、遂にシカゴ・クラブを拠点にした ロータリー活動を断念したポール・ハリスは、健康が思わしくないことを表向きの理由にして、二期目の任期途中で会長を辞任し、次いでシェルドンも、拡大に消極的だった新会ハリー・ラグルスによって、拡大委員長を解任されるという異状事態にまで発展します。
[This Rotarian Age ---Paul Harris--- 田中毅訳]
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奉仕理念の導入
2006/09/04
身勝手なことがいつまでも続く道理もなく、こうした行為に対する一般の人からの非難が日に日に高まり、ロータリアン自身からも批判が出始めてきました。 1906年4月に、ドナルド・カーター事件が起こりました。フレデリック・トゥイードFredrick Tweedが、特許弁理士ドナルド・カーター Donald Carter に[物質的互恵]の特典を説明して、シカゴ・クラブへの入会を薦めたとき、彼は職業を持って社会で生活している以上、職業を通じて社会に貢献することが自分が存在する証になるのであって、自分たちだけの利益にこだわって、社会的に何もしない団体に将来性も魅力もないと述べ、入会を断ったのです。
簡単に入会できないことが大きな魅力であり、入会を薦めれば誰しもが二つ返事で受諾することが当然だと思われていましたから、この入会拒否事件はシカゴ・クラブに少なからぬショックを与えましたが、この事件の処理に対するフレデリック・トゥイードとポール・ハリスの対応は極めて適切であり、その適切さが後のロータリーの発展につながっていきます。
「せっかく仲間にしてやろうと言っているのに、断るなんて失礼だ。今後二度と声をかけない。」俗人ならきっと、そう思ったに違いないし、二度と彼を誘うこともなかったでしょう。しかし、[物質的互恵]と[親睦]にのみ終始することに限界を感じ、次の段階へのステップ・アップを考えていたポール・ハリスは、 この事件を絶好のチャンスと捉えて、直ちに、ロータリーの在り方を転換することを決断し、定款を改正することを条件にドナルド・カーターに再考を促し、彼も快く入会を了承しました。
これを契機に、シカゴ・クラブの定款に対社会的な行動に関する項目が付け加えられ、始めて、原始ロータリーに奉仕という概念が芽生えることになります。
ロータリー運動に奉仕の概念が導入されはしたものの、会員同士がお互いの事業の発展を図る相互扶助は、相変わらず魅力的な活動としてその後も継続されます。ただ、相互扶助を物質的互恵だけによって図ろうとする弊害に気付き、会員同士がお互いの事業を発展させるために智恵を出し合う精神的互恵に、相互扶助の方法が転換されていきます。もっとも、この転換は一朝一夕になされたわけではなく、物質的互恵から完全に脱却できたのは1912年になってからです。
会員が会社経営や労使問題などの経営上の悩みを持ち寄ってお互いに相談し合うという、この精神的互恵は徐々に定着し、シカゴ・クラブの会員に大きな恩恵を与えることになります。会員が例会の度に持ち寄る企業情報は膨大なものとなり、友情に裏打ちされた情報だけにその精度は極めて高く、異業種間の情報やアイディアの交換、ノウハウの伝授によって商習慣の改善や業務の能率化合理化が進み、企業収益を順調に伸ばす結果になっていきます。
現在と違って、当時は経営理論や経営戦略が学問として集大成されていたわけではありませんから、ロータリーの例会の卓話やいろいろな会合で披露される実践談は、大学の講義以上の価値あるものとして受け止められたに違いありません。更に、従業員対策や適正な利潤を得るための方策は職業倫理を高める運動に発展して、後日、実践の場におけるロータリアンの指針ともいうべき、[ロータリー・モットー]、[ロータリー倫理訓]、[四つのテスト]などを生み出すことになります。
[This Rotarian Age ---Paul Harris--- 田中毅訳]
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物質的相互扶助と親睦
2006/08/28
ロータリーが発足した当初は、奉仕の概念は芽生えておらず、限定会員制度の社交クラブとしての目的は、会員相互の親睦を深めることでした。殺伐とした都会の中で安らぎを求め友情を育むために、[一人一業種]と[定例の会合]によってお互いに親睦を深めていた社交クラブの中に、やがて会員の事業にお互いが利便を図り合う[相互扶助]の考え方が発生してきます。
1906年1月、ポール・ハリス、マックス・ウルフ Max Wolff、チャールズ・ニュートンの起草によって制定された、シカゴ・クラブの最初の定款には、[親睦の充実]と共に[職業上の利益の向上]が謳われています。ロータリー運動は、将に、エゴイズムの中から出発したともいえましょう。
会員の事業上の利益の向上を図るために、会員同士の相互扶助が活性化され、やがて、それは積極的な[互恵取引]に発展していきます。お互いの会員が、自分一人では掻くことのできない背中を掻き合おうという back scratching の世界です。
印刷屋のラグルスは、自分の保険を保険代理店のニュートンと契約します。その代わりに、ニュートンはラグルスから文房具や用紙類を買います。二人はシールに石炭を注文し、シールは当然自分の保険と印刷を二人に頼みます。ハリスはごく当たり前のこととして、みんなの法的な問題を喜んで引き受け、汚れたシャツはアーヴィンの洗濯屋に届け、洋服の注文はショーレーに頼みます。彼らは果てしなく関係の続く、自己中心的な相互扶助のグループを作りあげたのです。
当時のシカゴ・クラブのパンフレットには、会員になることによって事業上のメリットが得られ、会員が商品や原材料を購入するときには、会員相互の取引が義務であり、さらに原価で提供することが原則であることが明記されています。統計担当の役職 Statistician と Registrar を設けて例会毎に報告書を配付し、次回の例会の出欠予定報告と同時に前回の例会以降に会員間で行われた取引状況を記入することが義務づけられていました。
会員相互で商品や原材料を原価で取引して、それを一般の人に売って大きな利潤をあげるのですから、こんな効率的な話はありません。この制度は会員の事業に大きな経済効果を生みだし、零細な企業主でもロータリークラブに入会すれば必ず事業は拡大し、大金持ちになれるとさえいわれました。
ポール・ハリスは、会費が高いことに不平を洩らす会員に、原価取引で得られる利潤を考えれば決して高い会費とはいえないと諭しながらも、シカゴ・クラブの[物質的互恵]制度への非難に対して、後日、次のように弁明しています。
“初期のロータリーの目的は利己であったとしばしばいわれる。或いは、その通りであったかもしれない。しかし、今までの人生の中で最も人を思いやり、自己を滅却できたのは、1905年、シカゴ・クラブの会員であった日々だと述懐する人もいる。会員が利己か利他かの判断は、何によって幸せを見付けだすかによって決まる。もし、会員が自分の利益を図ることに幸せを見いだしていたとすれば、利己主義であり、反対に、友人を助けることだとすれば、それは利他である。シカゴ・クラブの初期の段階に、この両方の考え方があったとしても、それは、至極当然のことであろう。”
[This Rotarian Age ---Paul Harris--- 田中毅訳]
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ロータリーの黎明(4)
2006/08/21
万博後の大不況、ギャングの横行、金もうけのためなら手段を選ばないという職業倫理の低下、信頼関係の欠如。1905年、シカゴという殺伐とした時代背景の中から、ロータリーは誕生しました。
一旗あげようという思いにかられて、田舎の村や町から集まってきた善良な人達にとって、更に、貧困や政治的な迫害から逃れて、新天地に自由を求めてやってきた移民達にとって、シカゴは決して住みやすい街とはいえませんでした。大都会に住む一般の人たちが感じる孤独感と阻害感に加えて、ビジネスマンには苛酷な自由競争に敗れるかも知れないと言う恐怖感が付きまとっていました。逆説的にいえば、そんな環境にあったからこそ、もし、心の通い合った友人たちと巡り合い、胸襟を開いて語り合うために定期的に集ることができたら、どんなに心が安らぐことであろうという発想が浮かんだとも言えましょう。
「灰色の都会が無性に侘しい。」
「信じ合える友人が欲しい。」
同じ思いの人がたくさんいるに違いない。シカゴで弁護士を開業した36歳の青年、ポール・ハリスがロータリークラブを作ることを思いついたのは、「大衆は地獄に堕ちよ」とさえ言われた罪悪と腐敗の街に住みながら、その街の中に、彼が少年時代を過ごしたニューイングランドの村で感じた安らぎを取り戻そうとする、ささやかな実験でもあったのです。
<良質の職業人が集って定期的に会合を開く>
<同業者がいるとお互いに利害関係が生じて、親睦が阻害されるので、一業種から一人ずつ選ぶ>
最初の会合で決定された[定例の会合]と[一人一業種制による職業分類]の原則は、100年近くの歴史を通じて、思考体系や管理、運営などが大きく変化する中で、設立以来現在まで大切に守られてきたロータリー運動を成立させるための必要条件なのです。
極く普通の街の弁護士を中心に、決して高い学歴の持ち主とはいえない極く平凡な商店主や中小企業の経営者が集って、ロータリークラブが発足したことは特筆すべき事柄です。特に日本では、社会的な地位や事業の規模を重視した会員選考が行われる傾向が強いようですが、本来、ロータリークラブは、エリ-トと呼ばれる人たちを集めて作った組織ではなく、ロータリー運動を通じてエリートが誕生したことを忘れてはなりません。
[一人一業種制]と[定例の会合]を原則にした職業人の親睦団体として、ロータリークラブは発足しました。多くのアクティブな会員の参加を得て、加速度的に会員の数が増加していきました。
忙しい職業人の集まりですから、時間励行が約束ごととなり、チャールズ・ニュートンが昼食に思わぬ時間が掛かって遅刻したことを契機に、どうせ皆昼食を食べるのだから、一緒に食べる方が効率的だということで、昼食会を兼ねることが習慣になりました。例会出席をクラブ活動の根源と考え、四回連続して休むと会員資格を失うことを申し合わせ、更に、初めは二週間に一回だった例会も、「二週間に一回集まれるなら、毎週集まれないはずはない。」という理由から週一回開くようになりました。会員の事業所を例会場として持ち回る習慣は、会員数増加と共に事実上困難となって、ホテルやレストランで開かれるようになり、やがて固定化されます。親睦にひびが入るほどに白熱した議論の場を和らげるために、ハリー・ラグルスが歌い始めた唱歌が定着し、徐々に現在の例会スタイルに似 たものに変化していきました。
[Golden Strand ---Oren Arnold--- 田中毅訳]
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ロータリーの黎明(3)
2006/8/7
印刷屋のハリー・ラグルスが、直ちにそれに対処することを命じられて、本業に次ぐ仕事としてやることになった。ハリーは、その夜、自分の印刷店に帰って、手持ちの版画のラックをかき回した。当時のアメリカには、100万台以上の馬車があり、ワゴン・ホイールのデザインはすべてのアメリカ人の網膜に焼き付いていた。彼は極めて平凡な一つを選んだ。ハブとスポークを持つ力強い円。幾何学的なデザインとして、それはある種の美しささえ持っていた。翌週、ハリーが会員たちにそれを示した時、彼らは再び賛成してうなずいた。新しいクラブで最初に印刷された例会通知には、コメント抜きの原型のワゴン・ホイールの刻印が押されていた。
1920年までクラブは、機械の歯車とは似ても似つかぬ別のデザインを採用していた。それは20の歯車と、Y字形を残して鮮やかな色合いでお互いに交差した6本のスポークから成っていた。その模様はシカゴをオリジナルなクラブであることを認めて、歯車の中心に重ね合わせたものであった。
新しいクラブが進んでRIの公式エンブレムを使いはじめるという風潮にまでに発展していった1926年の時点まで、大きな変化はまったく起こらなかった。
1906年制定 1910年制定 1913年制定 1926年制定
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ロータリーの黎明(2)
2006/7/31
友人たちを見て微笑んでいたポールは、突然、緊張した面もちになって話し始めました。
「ハイラム君。君は我々の新しいクラブの中で、仕立て屋という職業を持っています。私は弁護士です。それぞれのメンバーは自分自身の職業を持っているのですから、我々はお互いに、自分の職業を活かした取り引きをしてはどうでしょう。」 <最初の会合:1905.2.23 ロアの事務所>
「個々の会員の事務所で代わる代わる例会をしたらどうだろう?」
ハリスはそう提案しました。
「その方法なら、我々それぞれはすぐお互いの職業に対する詳しい知識がつくはずです。持ち回りという取り決め事はすばらしいことだと思います。」
その考え方は貴重な意見だったので、満場一致で採用され、例会は楽観的な雰囲気の中で終わりました。
<第2回目の会合:1905.3.9 ハリスの事務所>
彼らは、自身たちのことをブースタークラブ(推進者)と呼ぶことを考えついた。
「ブースター? 電圧の上昇?」
しかし、思慮深い考えが、ハリスとシールに、その名前をクラブにつけることを思い留まらせた。我々はシカゴを押し上げることに関心があるのではない……。会員の望みは、世間の注目をあびている彼ら自身を“押し上げる”ことではないのか。彼らが望んでいるのは、相互取引によってより多くの金を稼ぎ、毎週の例会でささやかな楽しみを持つことだった。
ラウンド・テーブル・クラブはどうだろうと、誰かが提案した。これもまた悪くはない……。その名前には新鮮味がなかったし、新しい国の生き生きした都市には、まったくふさわしくなかったし、皆もそう思った。
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ロータリーの黎明
2006/7/24
「私は実業家のクラブについて、ずっと考え続けてきました。それは、シカゴにある今までの社交団体とはまったく違った、新しい種類のものなのです。」
「それは、どのように違って、どんな意味を持つクラブなのですか?」 シールは尋ねました。
「そうですね。知己と友情を充分に強調したいですね。しかし、それだけではなく、会員同士がお互いのビジネスを伸ばせたらいいと思います。それは難しいはずはないと思うのですが。」
「例えば、二人の会員が同じ職業を持つことができないと決めればいいでしょう。そうすれば、クラブの中には競争相手がなくなります。もし会員の誰かが品物 やサービスが欲しい時には、クラブ内の人と取引する義務を持たせたらいいでしょう。相互扶助の一種だけれど、どう思います?」
[Golden Strand ---Oren Arnold--- 田中毅訳]
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四つのテストThe 4-Way Test
2006/7/10
四つのテスト
言行はこれに照らしてから
- 真実か どうか
- みんなに公平か
- 好意と友情を深めるか
- みんなのためになるかどうか
The 4-Way Test
Of the things we think, say or do
- Is it the TRUTH?
- Is it FAIR to all concerned?
- Will it build GOODWILL and BETTER FRIENDSHIPS?
- Will it be BENEFICIAL to all concerned?
創案は七つのテストだった
シカゴ・クラブのハーバートJ.テーラー(ハーブ)が1932年、破産寸前状態にあったシカゴの調理器具メーカ:クラブ・アルミニウム社の再建を頼まれたとき創った社の倫理訓が源。最初は7つの項目でしたが、これでは長いと考え、自問形式の4項目にまとめ上げたのが、今日の四つのテスト。同社は5年後には借金を完済して立ち直り、15年後には多額な配当ができるようになる。
シカゴクラブがその四つのテストを知ったのは1939年、ハーブが商工会議所でこの話をしたのがきっかけでこのテストが取り入れられる。その後、RI理事会で四つのテストを職業奉仕の指針にしたいとの声があがり、ロータリー創立50周年記念にあたる1954-55年度ハーブがRI会長に就いた時、四つのテストの版権がRIに寄付され、今日に至っている。
※ある弁護士はハーブにこう言いました。「もし私がこのテストを厳密に実行したら、私は飢え死にするでしょう。ビジネスに関して言えば、四つのテストは絶対に実行不可能です」。
※あまりに理想的すぎて実社会には向かない、とお考えですか? 四つのテストは、ビジネスという厳しく、変転きわまりない世界で生まれ、経済界が経験した最も過酷な時代の中で、厳密な試験を経てきたのです。それは、実業界という競争の場で生き残ってきたものなのです。
※日本語訳(1954年) 日本語訳懸賞当選原案の一部
◆東京ロータリークラブ
四つの自省 -言行はこれに照らしてから-
- 真実か どうか
- みんなに公平か
- 好意と友情を深めるか
- みんなのためになるかどうか
◆室蘭ロータリークラブ
四つのテスト
- これは真実でしょうか
- これはみんなに公正でしょうか
- これは好意と友情を深めるものでしょうか
- これはみんなのためになるものでしょうか
◆東京北ロータリークラブ
事に当たりて先ず問はむ
- それが真実で正しいか
- 公明正大明朗に
- 好意と友誼を増進し
- 凡ての者を益するか
◆横浜ロータリークラブ
渡世四針
- 真意ですか?
- 一様に公平ですか?
- 友愛と親善を深めますか?
- 漏れなく潤いますか?
◆岡崎ロータリークラブ
四つの道
- それは正しい事か
- 公明妥当か
- 好意と友情を深めるか
- 皆んに有益か
◆ロータリー問答
- 正しいことか?
- 当事者全部に公正であるか
- 好意とよりよき友情を生み出すか?
- 当事者全部を益するか?
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